top of page

2024年11月17日 降誕前第6主日

説教題:「救いの約束」

聖書 : 申命記 18章15-22節(309㌻)

説教者:伊豆 聖牧師

救いの約束

 本日の聖書箇所は申命記です。以前お話したように申命記はこれから死にゆくモーセが残されるイスラエルの民に対して送った遺言であるということです。ご存知のようにモーセは主によって立てられたイスラエルの民のリーダーでした。奴隷であったイスラエルの民を主は救われましたが、彼を通して救われたのです。主の導きによって民はエジプトから脱出しました。このまま主がお示しになられた乳と蜜の流れる土地に入ればめでたしめでたしだったのですが、あいにくとそうはなりませんでした。主は彼らが主に忠実であるかお試しになられました。そして彼らは主の試しにことごとく失敗しました。そして何度も主に逆らいました。主は彼らに疫病を送るなどの罰を与えたり、彼らを滅ぼしモーセだけを生かして、彼の子孫をもって新たな神の民としようとしました。しかしモーセは主を何度もなだめました。
 

 最終的に主はヨシュアとカレブ以外の大人世代の彼らを砂漠に40年間さまよわせ、彼らの子供世代を約束の地、カナンに導くことを決断されました。主がこのような決断にいたった出来事はカナンの偵察にありました。主がモーセに人をやってカナンの土地を偵察するよう申し渡しました。モーセは主の命令通りに人を遣わして偵察させました。彼らが偵察に行ったところ、彼らはそこで素晴らしい土地を目にしました。しかし同時にそこに住んでいる住民が自分たちより遥かに強いことを目にしました。そして彼らが自分たちの民のところに帰り、土地は素晴らしく潤沢であるけれど、そこを支配している住民たちは自分たちより大きく強いので、その土地に入ることが出来ないと報告したのです。ヨシュアとカレブだけが主がついているので、その土地を獲得することができると主張したのです。そして民はその土地を獲得するのに否定的な報告をした人々を支持しました。このことは主を怒らせました。なぜなら彼らは主が導き入れようとした土地を否定し、主を信じなかったからです。これが主がヨシュアとカレブ以外の大人たちを砂漠にさまよわせ、亡くなるのにまかせ、子どもたちを約束の土地に迎え入れようと決断した経緯です。このことは民数記13章から14章に書かれています。
 

 さてこの主の行いを厳しいと見るか、やさしいと見るかです。私がそういう事を言うと「何を言っているんですか牧師先生、厳しいに決まっているじゃないですか?主は奴隷状態のイスラエルの民を救われた。それは素晴らしい。ですが、その後彼らを過酷な状況において、試練に遭わせるなんてとんでもなくひどい事じゃないですか?なんで主はすぐに約束の土地カナンに彼らを入れなかったんですか?」と言われるかもしれません。
 

 ですが果たしてそれでいいのでしょうか?子供を甘やかして育てたとしてその子供は将来どのような大人になるのでしょうか?最近は闇バイト、強盗、いじめなどの痛ましい事件を目にします。これもひとえに家庭での、または学校でのしつけのなさに原因があるのではないでしょうか?こういう事を言うと「昔からこういうことはあった。それが表面化してきただけです。」「今はめったに子供を怒れないし、虐待と疑われてしまう。」と言った批判をされてしまいます。確かに昔からこういうことはあったかもしれませんが、私は近年これらの犯罪の質が変わってきていると思うのです。それを客観的に数値化してくださいと言われても困るのですが、私の肌感覚では酷くなっていると感じています。さらに言うならばもちろん虐待はいけないですし、実際しつけと称して虐待をしている親もいます。そしてそれらは増えてきているのですが、それと同時に犯罪行為としか思えないものを子どもたちが行っていて、それをいじめとして受け止めている、もしくはそのいじめとしても受け入れないようになっているということです。そして責任ある大人たちが対処しないということです。結局しつけなし、訓練なしに育った子どもたちはそのような行為をし続けるということです。だからこそ主がイスラエルの民を試したということは正しいことであると私は考えています。たとえ、表面上厳しいことであると見えたとしてもです。ですが彼らはその訓練に耐えることが出来なかった。だからこそ主は彼らの中でその訓練を耐え、主への信仰を示したヨシュアとカレブ以外を砂漠でくちさせ、彼らの次の世代に期待をして、約束の地に入れたのです。
 

 さて約束の地に入れなかった人々の中にはなんとモーセがいます。モーセは主によって立てられた主の民のリーダーでした。度々主がこの民を滅ぼそうとしたのを止めました。「ここまで苦労をしてきたのになんで私がこの度々主に逆らってきた民と一緒に約束の地に入る前に死ななければならないんだ。」という悔しい思いがモーセにあったと思います。そんなモーセの思いが表れているのが申命記3章25節です。「どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。」
 

 しかし主の返答は実に厳しいものでした。「もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡っていけないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう。」(申命記3章26節から28節)                            
 

 見ることは出来るが入ることが出来ないというのもまた厳しいですね。ウィンドウショッピングの状態です。私だったら入ることが出来ないんだったら見せないでほしいです。なぜモーセは約束の地に入ることが出来なかったんでしょうか?これは私たちにとっても疑問ですよね。モーセはこれだけ貢献してきたにもかかわらずですから。これは民数記20章1節から13節に書かれていますが、メリバの水に関する事件によってです。カデシュという場所にイスラエルの民は滞在したのですが、そこには飲み水がなかったんですね。ですから民はモーセとアロンに逆らって飲み水がないのではないかと不平を言ったんですね。その不平を主はお聞きになられ、モーセに「ある岩を杖で指し、水を出せと岩に命じなさい。」と仰ったんですね。そしてモーセは杖を取り出したのですが、岩を二度も打ったのです。そして岩から水は出たのですが、これは主が命じられたこととは違っていたのです。
 

 皆さんはそんな事でと言われるかもしれませんが、主にとっては小さいことではなかったのです。だからこそ、主はモーセとアロンにこのように仰いました。「あなたたちはわたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ、あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。」(民数記20章12節)
 

 さてモーセの心中はどうでしょう。「確かに主の命令に従わなかったから約束の地に入ることが出来ないことはわかった。しかしそれでも私はこれまでイスラエルの民をリードしてきたではないか。あんな不平不満を言い、自分勝手な事ばっかり言い、逆らってきた人々をリードし、主との仲を取り持ってきたではないか。なのに最後はこの仕打ちですか。」と腹を立ててしまってもおかしくありません。ですが、彼は彼の責任を放棄することはしませんでした。彼の後任のヨシュアを力づけ、そして民を力づけました。申命記はその事の証拠であります。
 

 さて長々とお話してきましたが、本日の聖書箇所です。預言者を立てる約束ですね。15節「あなたの神、主はあなたの中から、…わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」とあります。この預言者とは誰でしょう。主イエス・キリストのことです。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」      (申命記18章18節)                          

預言者とはなんでしょうか。漢字で書けば言葉を預かる者ですよね。誰の言葉を預かるのでしょうか?主の言葉を預かるのです。主が主の言葉を授け、その言葉を預かるから預言者ということです。同じ言葉で、つまり同じ発音で予言者というものがありますね。これはこれから起こることを予め告げる者ですね。もちろん、主の言葉を預かる者、預言者もこの役割をすることもありますが、それよりも大切なことは彼が主の言葉を預かる者であることです。さて、主イエスは御自分の事をなんと仰っていたのでしょうか?「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」
(ヨハネによる福音書12章44節から50節)

 

 さて、イスラエルの民は主イエスが来られた時主イエスを信じたでしょうか?確かに最初は熱狂的に支持しました。しかし最後は主イエスを拒絶し十字架にかけて殺しました。それだけではありません。モーセ亡き後、ヨシュアが後をついで民をリードしましたが、その後にはモーセやヨシュアが危惧したように主を忘れ、主に逆らいました。士師記に書かれている通りです。サムエルの息子たちが主の道に歩まないからといって主の御心に叶わないこと、つまり王を立てるようサムエルに要求しました。立てられたサウル王は主に逆らい、最終的にダビデ王、ソロモン王で国は統一されますが、その後ソロモンが晩年偶像礼拝の罪に陥ったので彼の息子の代で国はユダ王国とイスラエル王国に分裂しました。それぞれの国は主に偶像礼拝と不正にまみれました。主は預言者たちを遣わしましたが、悔い改めず、イスラエル王国はアッシリアによって滅ぼされました。ユダ王国はバビロンによって捕囚の憂き目にあいました。ペルシャによってバビロンは滅ぼされましたが、ローマ帝国によって支配されることになりました。そんな中で主イエスがこの地上にお生まれになったのです。結局イスラエルの民は主に逆らい続けているということです。モーセが自身の個人的感情を殺し、自分の民の幸いを願って書いた遺言である申命記の内容は破られたということです。ですが、唯一の希望はなんでしょうか?それは主イエス・キリストです。「あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」とある通りです。イスラエルの民は失敗し続けています。私達はどうでしょうか?私達はモーセの残した遺言である申命記を真剣に受け止め、救いの約束である主イエス・キリストを受け入れられるでしょうか?ぜひとも受け入れたいと思います。
 

bottom of page