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2025年3月30日 受難節第4主日

説教題:「生を選ぶ以上のこと」

聖書 : マタイによる福音書 28章16-20節(60㌻)

説教者:伊豆 聖牧師

生を選ぶ以上のこと

 遺言というと皆さん何を思い浮かべるでしょうか?子どもや孫たちに語ることが出来なかった思いを書くことかもしれません。彼らの将来の事を心配して書くことかもしれません。ですが大体遺言、遺言書ということとなりますと財産、いや遺産ということを思い浮かべてしまうのではないでしょうか?銀行預金にいくらある、土地建物の資産価値はいくらだとか、株券はどのくらいだとかいうことですね。世の中的にはそういうふうになっていますし、マスメディア、ドラマでもそういうふうになっていますので、私達がそういうふうに遺言と聞くと遺産と想像してしまうのは仕方がないのかもしれません。

 

 聖書の世界ではこの遺言に関してどうなっているでしょうか?もちろん、遺産に関して規定というものは存在していました。しかしこのような実物以上の遺産についての話があります。それが祝福です。あまりいい例ではないのですが、イサクの長男のエサウが次男のヤコブに祝福を奪われた話は皆さんご存知だと思います。創世記27章1節から45節です。

 

 父イサクから受け取るはずであった祝福を弟のヤコブに奪われた兄エサウの嘆き、悲しみ、そして怒りは相当のものでした。
「エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。『わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。』」(創世記27章34節)
「エサウは叫んだ。『彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。』エサウは続けて言った。『お父さんは、わたしのために祝福を残しておいてくれなかったのですか。』」(創世記27章36節)
「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。『父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる。』」(創世記27章41節)

 

 最後はずいぶんと物騒なエサウのセリフです。確かに人から物を奪われることは頭にくることです。しかも2回も。そして自分より格下であると思っていた(少なくともユダヤ社会では弟は格下であるとみなされていた。)弟に奪われたのですから頭にくるということです。しかし分かりづらいことがあります。祝福です。もし私達が目に見える財産、例えばお金とか土地、建物とかを奪われてしまったとすると私達は怒ってしまいます。遺産相続で骨肉の争いなんて言う話はよく聞くと思います。しかし祝福というものは目に見えないものです。ですから分かりづらい。しかし祝福というものは目には見えなくても確実に存在するということを彼らはわかっていました。だからこそあれだけエサウはヤコブを憎んだわけです。もちろん、人を殺そうとする思いは決して神に受け入れられるものではないのですが。ただ私達もまた目に見えないもの、信仰、聖霊を信じているわけですから、恵みもまた存在しますし、恵みを求めること自体は間違いではありません。ヤコブが恵みを求めて格闘をしたことを思い出してください。

 

 さてヤコブによるヤコブの息子(ヤコブの息子ヨセフの息子も含む)たちへの祝福の場面です。創世記48章1節から49章28節までです。この前のイサクからヤコブの祝福は正に祝福、恵み、つまり将来にわたってヤコブは繁栄することを保証する内容のものでした。しかし今回のヤコブから息子たちへの祝福は必ずしも彼らの繁栄を保証する内容のものではありませんでした。災いや呪いの内容も含まれていました。そういった事も含めてこれから彼らに起こるであろうことを述べた預言でした。ですがイサクからヤコブへの祝福そしてヤコブから子どもたちそして子孫たちへの祝福というのは将来にわたってこの地上の生活で彼らに与えられるものでした。少なくともイサク、ヤコブ、ヤコブの息子たちはそのように想定していただろうと思います。

 

 さて出エジプトです。神がモーセをリーダーとしてイスラエルの民を奴隷状態であったエジプトからカナンの地に導きだした話です。モーセが亡くなる前にイスラエルの民に言葉を残しました。いわば遺言です。イサクやヤコブと同じです。   

しかしイサクやヤコブが残した遺言と決定的に違うことはあります。それは条件付きの祝福であったことです。それが表れているのが申命記30章です。神に従うなら祝福され、従わなければ滅ぼされるというものです。            「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、」と申命記30章19節にあります。

 

 実際には彼らは従わず、酷い罰を神から受けるのですが、完全に滅ぼされるまでにはなりませんでした。そしてこの遺言もまたこの地上での繁栄と呪いというものでした。それは続く20節の「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる。」に表されています。 

モーセの後を受けたヨシュアもまたモーセと同様な遺言を遺しました。それはヨシュア記23章から24章に書かれています。条件付きの祝福と将来における彼らと彼らの子孫への祝福と呪いです。

 

 さて本日の聖書箇所です。これは大宣教命令という有名な箇所です。主イエス・キリストの使徒たちへの命令です。いわば主イエス・キリストによる使徒たちへの遺言、私達への遺言であります。この遺言はイサクやヤコブの遺言、モーセやヨシュアの遺言と何が違うのでしょうか?イサクやヤコブの遺言は神からの一方的な祝福(ヤコブの祝福は呪いの部分もありましたが)、モーセやヨシュアの祝福は条件的な祝福そして呪いでした。そして双方ともこの地上での祝福と呪いです。この地上での生活で恵まれるあるいは呪われるというものでした。少なくとも彼らはそう考えていたのだと思います。ですが、主イエス・キリストの遺言はそういうこの地上での繁栄と呪いというものを超えています。自分が地上で繁栄するために神に従う、キリストに従うのではないのです。自分が繁栄するためにキリストの弟子を作る、福音宣教をするということではないのです。まずキリストの弟子を作る、福音宣教をするというのが大前提なのです。もしそれでも理由があるとするならばそれが神の御心にしたがうこと、神が私達に望んでいるからと答えます。神の御心に従おうではありませんか。
 

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