top of page

「キリストの体」

  • 2020年5月5日
  • 読了時間: 5分

2020年4月26日 第4主日礼拝説教 

説教題:「キリストの体」

聖書:新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 12章12〜30節(316㌻~)

説教者:伊豆 聖牧師

人が生活をしていく中で必要なこととは何でしょうか?経済的なこと、学歴、人間関係でしょうか?健康であるということもまた人が生活をしていく中で必要なことだと考えます。私がこの教会に着任してから26日目になります。その間、様々な事があり、それらに取り組みつつ、夢中でかけぬけてきた26日間でありました。

この間、体調も崩さず、健康が守られたことを感謝いたしております。また、去年神学校に入学して以来大した病気もせず卒業出来たことは神様の恵みであり、神様に感謝しております。

しかし、人間、ある程度の年齢になれば、それなりに体のどこかに弱さを抱えておりますし、また今のこのコロナウィルスの影響でますます、私達は健康がいかに大切かということを考えているかと思います。健康であるということはどういうことでしょうか?

病気をしていないこと。体が機能不全になっていないことだと思います。風邪を引いたときのことを思い浮かべてください。微熱や鼻水や咳がでるといった初期症状であれば、まだいいのですが、高熱で体がだるい、体の自由がきかない、体が自分の体ではないように重たく感じる。そうなってしまってはもうアウトなのです。この状態が健康でない状態であり、機能不全になっているということなのです。

では、教会が健康でない、機能不全になっているとはどういう状態なのでしょうか?

この1コリントの手紙は使徒パウロがある問題を抱えているコリントの教会に送ったものです。その問題とは分裂です。本日の聖書箇所ではないのですが、第1コリント1:10〜13でパウロはこう言っています。「さて、兄弟たち、私たちの主イェス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」

つまり、コリントの教会の人々が各々自分勝手な主張をし、内紛や争いが絶えず、教会としてのまとまりがなかったということです。このようなところは組織として弱いですし、人々から信用もされないのではないかと思われます。例えば、しょっちゅう分裂をくりかえす政治政党などは組織として弱く、人々から支持されないということと同じではないでしょうか。

また、内輪もめが組織を弱体化させることは主イェスご自身が言われております。主イェスが悪霊を追い出していた時、ある人は主イェスが悪霊の首領ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのだと言ったのです。それに対して主イェスはこう言います。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。」ルカによる福音書11:17-18

パウロはこの内輪もめ、分裂状態のコリントの教会を手紙で批判しました。であるならば、パウロは教会がどういう状態であれば良いと考えていたのでしょうか?

本日の聖書箇所の第一コリント12:12−13です。「体は一つでも、多くの部分からなり、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分のものであろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」

パウロはまず、教会を人の体に例え、人の体が多くの部分から成り立っているとしても一つであるように、教会もまた様々な性格や賜物を持った人々から成り立っているとしても一つであると言っています。そして、この体は単なる人の体ではなく、キリストの体であり、わたしたちはキリストの霊をのませてもらった、キリストの霊に満たされていると言っているのです。わたしたちは違った性格、個性、賜物をもって教会で働いているが、キリストにあって一つなのです。今回、残念ながら合同のナザレン全国大会が中止となってしまいましたが、その標語はキリストにあって一つであったと記憶しております。

さらにパウロはこの事すなわち異なる部分から成り立つ一つのキリストの体の意味を詳しく説明していきます。15-18節で「足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。」とパウロは言います。つまり、教会とは一つのキリストの体でありつつ、異なる性格、異なる賜物を持った人々が共に働く共同体であるということです。ですから、21節で言われているように、あなたは要らないとは言うことはできません。そして、わたしたちが自分たちの体の弱い部分をいたわり、良くしようとするように、教会もまたそのようになるべきであるとパウロは言っています。そうすることによって、教会内で分裂が起こらず、人々が互いを配慮することができるとパウロは言っているのです。26節でパウロはこう言います。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」1コリント12:26

パウロがこれまで述べてきたこの教会像こそが健康な状態、機能不全に陥らない教会ではないでしょうか。浦和教会の教会員の方々はそれぞれの賜物を持っています。音楽の賜物、会計や事務処理の賜物、リーダーシップの賜物、ホームページ作成や文書校正の賜物です。この教会に赴任して以来、私はこれらの賜物を持っている方々に助けていただきました。感謝しております。これからもこの教会の教会員の方々が互いをいたわりあい、配慮し、キリストを中心として私とともに歩んでいただけることを願っています。

 
 
 

コメント


Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic

Copyright © 2026 浦和キリスト教会 All Rights Reserved.

このホームページサイトで使用しております聖書は全て、財団法人「日本聖書協会」発行の『聖書 新共同訳聖書』より引用させていただいております。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会(c)、 日本聖書協会 東京 1987,1988

bottom of page