「宣教の開始」
2025年1月26日 公現後第3主日
説教題:「宣教の開始」
聖書 : イザヤ書 8章23節-9章3節(1073㌻)
マタイによる福音書 4章12-17節(5㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
何事にも始まりがあり、終わりがあります。そして物事には時というものがあります。それはコヘレトの言葉の3章1節から11節にそのことが書かれています。主イエスがお生まれになられた時はクリスマスです。その後主イエスがお育ちになられ、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられました。これもまた一つの時です。そして弟子たちを集めつつ、宣教の開始をされる日を迎えられたということです。
本日の第2の聖書箇所マタイによる福音書4章12節を見ていきたいと思います。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。」とあります。まずヨハネが捕らえられたということです。どういうことかといいますと、洗礼者ヨハネがヘロデ王の部下に捕らえられたということです。ヘロデ王が王の弟の妻ヘロディアと結婚したのですが、ヨハネがそれを律法で許されていないとして批判しました。その事に腹を立てたヘロデ王が彼の部下を使ってヨハネを捕らえたということです。やがてヨハネは殺されてしまいますが、この経緯についてはマルコによる福音書6章16節から29節に書かれています。
つまりヨハネが捕まったことにより、彼は宣教を出来なくなったということです。そして主イエスが宣教を開始されたということです。つまりこれは転換点であったといえます。ヨハネの役割というのはどういったものだったでしょうか?主イエスの宣教の準備、いわば地ならしの役割でした。
主の天使ガブリエルがヨハネの父ザカリヤにヨハネの誕生を告げた時の言葉があります。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(ルカによる福音書1章17節)
「主に先立って行き」、「準備のできた民を主のために用意する」という言葉に注目してください。 またヨハネの父ザカリヤは天使の言葉を疑ったためにしばらく口をきけない状態でした。息子ヨハネの誕生後8日目に彼に割礼を施すために人々が家に来た時、彼は息子の名前をヨハネとするよう文字によって示しました。その時に彼は預言をしました。その預言の一部がこれです。
「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え」(ルカによる福音書1章76節)
つまりヨハネの役割というものは主イエスが本格的に宣教をし始めることによって終わりを迎えたということです。ヨハネの逮捕というのはヘロデ王の利己的な動機でされたものでありましたが、神のご計画であったということではないでしょうか?ヨハネはこのヘロデに逮捕されるという具体的な事を予見してはいなかったでしょう。しかし彼は自分の役割が終わりに近づいていることを察知していたようです。その事を表している言葉があります。
「彼らはヨハネのもとに来て言った。『ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。』ヨハネは答えて行った。『天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない』」(ヨハネによる福音書3章26節から30節)
このようにして宣教がヨハネから主イエスに移っていったということです。そんな中で主イエスはガリラヤに退かれたと12節にあります。そして13節では「ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」と書かれています。ガリラヤは異邦人とユダヤ人の間で生まれた人々が多く住む地方でした。それには理由があります。もう何度かお話をしているのですが旧約聖書時代にユダヤ人の国はイスラエル王国(北王国)とユダ王国(南王国)に分かれた事がありました。そしてイスラエル王国はアッシリアにユダ王国はバビロンに滅ぼされました。滅ぼされたイスラエル王国があった場所には多くの異邦人が入ってきました。
そして残されたユダヤ人の人々と一緒に住むようになり、先のような状態になったというわけです。ガリラヤはイスラエル王国があった場所にある一地方というわけです。ナザレはそのガリラヤにあり、主イエスの故郷です。ゼブルン、ナフタリとはガリラヤの北の地方です。これらはイスラエルの部族の名前でもありました。カファルナウムはこのガリラヤの北の地方ゼブルン、ナフタリの地にあるガリラヤ湖畔にある町ということです。
主イエスが宣教を始められたガリラヤ、そしてそこにあるカファルナウムはどういう土地であったでしょうか?はっきりいって同胞のユダヤ人から軽蔑されていた土地でした。ユダヤ人は自身を神に選ばれた人々であると思っていました。事実そうなのですが。そして異邦人を言葉はわるいですが見下していました。異邦人は神に選ばれていない、汚れている人々であると彼らは考えていたのです。そしてガリラヤに住んでいる人々はユダヤ人といってもそうした異邦人とユダヤ人との間に生まれた人々であるので軽蔑されていたということです。それは善きサマリヤ人(ルカによる福音書10章25節から37節)やサマリヤの女性(ヨハネによる福音書4章1節から42節)の物語でもわかるかと思います。
さらに言うならば、歴史的な事もあると考えられます。旧約聖書を読んでみるとよくわかります。主がエジプトから約束の地に導いてから主からその地の人々と、つまり異邦人と親しくしてはいけないと言われました。なぜならその異邦人の神々を拝み主から遠ざかってしまうからです。しかし彼らは主からの言葉を捨て異邦人と交わり主を捨てました。あのソロモンですら主を捨てたのです。その後国は分裂し、偶像礼拝に走り、異邦人の国々によって滅ぼされました。もちろんユダ王国の人々は故郷に戻りますが、結局イスラエルの人々はローマ帝国、異邦人によって支配されています。彼らの心情はどうでしょうか?もちろん彼らが主の言いつけに背き異邦人と交わり、主を捨て、異邦人の神を拝み、異邦人によって滅ぼされたのは彼らの罪です。しかし彼らはそれを認めたくないのです。そういった過去を消し去りたいのです。だからこそ「私達はアブラハムの子孫であり、罪から生まれた者ではない」と言い、彼らの背きの罪を見ないようにしているのです。だからこそ異邦人との間に生まれたガリラヤに住んでいる人々、サマリヤの人々を見下すのです。
ですがそんな人々から見下げられたガリラヤの地のカファルナウムから主イエスの宣教は始まりました。そしてそれは預言者イザヤが預言していたと聖書は語っています。
「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
(マタイによる福音書4章15節から16節)
まさに主イエスの宣教は預言者イザヤの預言の成就です。つまり主のご計画ということです。そしてそれは主の御心にかなっていることでもあります。なぜなら人々から見下げられている人々、闇の中にいる人々こそ福音が必要であるからです。主イエスが「健康な人に医者はいらない。医者がいるのは病人である。」と仰ったとおりだからです。主は私たちに必要なものを必要な時に与えてくださいます。
「神はすべてを時宜にかなうように造り、」とコヘレトの言葉3章11節に書かれている通りです。大切なことは最善をなさる主を受け入れることです。
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