「最初の弟子たち」
2025年1月19日 公現後第2主日
説教題:「最初の弟子たち」
聖書 : マタイによる福音書 4章18-25節(5㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
先週は主イエスが洗礼を受けたということをお話しました。そしてその洗礼は主イエスにとって伝道をするためのスタートとして必要なことであったということを説明しました。
主イエスが伝道をしていくのに必要なこととして弟子を集めるということも必要でした。当時ラビと呼ばれていたユダヤ教を教える先生にも多くの弟子たちがおりました。洗礼者ヨハネにも弟子たちがおりました。私はこの浦和教会に遣わされましたが、教会員の方々に色々と助けていただいています。例えば礼拝を行うためには皆さんに奉仕をしていただいております。また礼拝以外にも教会を運営していくために様々な奉仕をしていただいており、とても感謝しています。
さて主イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いていた時に4人の漁師を弟子にしたということです。彼らはペトロとアンデレという兄弟そしてゼベダイという人の息子であるヤコブとヨハネという兄弟でした。彼らの職業は漁師であったということです。ルカによる福音書5章1節から11節のほうがこの時の事はより詳細に書かれてはいますので本日の聖書箇所4章18節から22節まではだいぶ省略しているなという感じがいたします。
ですが大切なことは書かれています。一つは彼らが漁師であったということです。つまりその当時社会的にあまり地位の高くない人々であったということです。なぜ主イエスは地位の高い人々を弟子にしなかったのでしょうか?例えば金持ちで地位のある人々を弟子にすればそれだけで主イエスのステータスが上がるではありませんか?私はこれこれこういう人たちを弟子にしているんですよ。おそらく主イエスはそのような世の中的な考えとはかけ離れているのだと思います。主イエスはこの地上で積極的に社会的に地位の低い人々と交わりを持たれました。そのことで他の人々から批判されました。主イエスの弟子たちが「なぜあなたの先生は罪人や取税人などと交わりを持つのか」と尋ねられたことがありましたが、主イエスは「健康な人に医者はいらない。」と仰いました。この主イエスの言葉には使命感とへりくだりの姿勢があります。そもそも主イエスは私達の罪の贖いのために神の下から人間の世界に来られましたので当然のことであります。ですから主イエスがこの世で地位の低い彼らを弟子としたのは当然の事なのです。
19節と20節に注目しましょう。「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」
これは主イエスがペトロとアンデレ兄弟に言われた言葉です。彼らが魚を取る漁師だったが人間をとる漁師すなわち人々に福音を語り主イエスに導く伝道師に変えられるという主イエスの言葉です。ですが彼らがそのようになるのはだいぶ後です。すなわち主イエスが十字架にお掛かりになり、復活をし、ペンテコステが起こった後のことです。むしろこの時点では逆に彼らは主イエスにとらえられたわけです。
ですがそれでいいのです。まず初めに主イエスにとらえられることが大切なのです。そして彼らの生き方が変えられることが大切なのです。彼らは網を捨てて従いましたね。これはいままでの仕事を変えるということです。これは大変なことです。もちろん昨今ではCMの影響で簡単に転職ができるような風潮ですが、この時代自分の職業を捨て、食べていけるかどうかわからない職業につくことがどれだけ不安なことか想像できません。ですが彼らはそれをためらいもせずにしたのです。何を食べようか何を着ようかということで思い煩うなと主イエスは仰いましたが、それを彼らはしたのです。並大抵なことではありません。
それだけでなくヤコブとヨハネ兄弟も主イエスは呼ばれ、彼らもまた主イエスに従いました。22節に注目します。「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。」ためらいがありませんね。さらに舟は先程の網と同じように仕事や生活の糧を表します。そして父親を残すということは肉親を残すということです。彼らは仕事、生活の糧、さらには肉親よりも主イエスを優先したということです。もちろんこの事について賛否両論はあると思います。ですが彼らは主イエスにとらえられ、変えられたのです。新しく生まれたのです。そして生き方を変えられたのです。それは主イエスがニコデモに説いたように新しく生まれたのです。今月のふくいんでIIコリントの信徒への手紙5章17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」という聖句が引用されたように彼らも新しく創造された者になったのです。
その後主イエスは御業を行い、御教を宣べ伝えました。
主イエスの評判はシリア中に伝わったとあります。大勢の群衆がイエスに従ったと25節に書かれていますね。彼らもまた変えられた人々ではなかったでしょうか?それまでは多分何も希望がなかった。病気や悪霊に苦しめられていた。しかし主イエスによって変えられたのです。主イエスにとらえられたのです。私達もまた主イエスによってとらえられたはずです。この弟子たちのように、そしてこの人々のように。ですから私達もまた人をとる漁師になろうではありませんか。主イエスをとらえようとしつつそうしようではありませんか。
パウロはこのように言っています。「何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(フィリピの信徒への手紙3章12節)
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