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「教えるキリスト」

2025年2月16日 公現後第6主日

説教題:「教えるキリスト」

聖書 : マタイによる福音書 5章17-20節(7㌻)​​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 主イエスがこの地上で生きていらした時、ユダヤ社会を支配していたものの一つは律法です。これはモーセの十戒から派生した様々な決まり事でした。律法学者たちがこれらの律法を作ってきたわけです。なぜ彼らはそのような多くの決まり事を作ってきたのでしょうか?

 ユダヤ人たちの父祖はアブラハムです。彼は神によって選ばれ、住んでいた土地から主が指し示す土地に行きなさいという命令を受け、彼の家族と共に旅立ち、その地に到着します。そして彼と彼の子孫は神によって祝福され、また彼らによって地上の民たちは祝福されるということを主から告げられます。 

そしてこの主の祝福のお約束はアブラハムの息子イサク、孫のヤコブ、そしてヤコブの息子たちに引き継がれていきます。彼らはエジプトに住むことになるのですが、やがてエジプト人に迫害されたので、主がモーセをお立てになられ、彼らをエジプトから脱出させ、主が彼らに約束したカナンの土地に導きました。やがて彼らは国を立てました。この物語は彼らユダヤ人たちの栄光の歴史です。

 しかし同時に彼らには負の歴史もあります。それは彼らが主に事あるごとに反逆してきたことです。その事は旧約聖書の士師記、列王記、歴代誌などを見ればわかります。彼らは反逆した代償として彼らの国が滅ぼされました。ですが彼らはもとの地に帰ることを許されますが、結局はローマ帝国に支配されるという状態になっていたということです。

 さて彼らは自分たちが主に従わなかったから、酷い目にあってきた、そしてあっているということがわかっていました。それで彼らはどうしたでしょうか?律法を守るようにしたのです。一見すると「良いことじゃないか。彼らは反省して、悔い改めて主に立ち返ったということじゃないか。」と思われるかもしれません。しかし実際に彼らがしたことというのは律法学者たちがモーセの律法をもとに彼らなりの解釈で多くの法律を作り、人々にそれらを守らせることでした。もちろん様々な状況を考慮して法律を作ることは大切なことかもしれません。ですが結局、人々の生活がそれら法律によってがんじがらめにされてしまい、支配されていました。しかもその法律というのは人の法律であって主の思いとはかけ離れていることもあったのです。

 しばしばこの律法で主イエスと律法学者・ファリサイ派の人々が対立したことがありました。例えばマルコによる福音書7章1節から23節ではこのような事がありました。主イエスの弟子達が手を洗わないで食事をしていたことについてファリサイ派の人々と律法学者たちが昔の人の言い伝えに反していると非難をしました。しかし主イエスは彼らを人の掟を教えとして神の掟を蔑ろにしていると仰りました。その例として主イエスはモーセの律法を引用します。「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、誰かが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」(マルコによる福音書7章10節から13節)

 また主イエスは安息日に人を癒やされていました。しかし、安息日は労働をしてはいけないという決まりになっていましたので律法学者やファリサイ派の人々は主イエスを非難していました。確かに安息日は労働をしてはいけない日ではありましたが、人を癒やすことは主の御心にかなうことであり、良いことです。それを非難することは果たして主の御心でしょうか?

 本日の聖書箇所に戻りまして、その前マタイによる福音書5章3節から16節、そしてその後21節から48節、6章から7章27節には主イエスの有名な御教(みおしえ)が書かれています。これは山上の説教(昔は山上の垂訓と呼ばれていました)というものです。先週の説教で申し上げたように喩えで話されていることもあり、分かりづらいところもあるとは思いますが、これは真理を話されています。それは父なる神の御心であり、私達に求められていることです。

 本日の聖書箇所に行きます。マタイによる福音書5章17節です。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」神の御心はモーセの律法や預言者を通じてユダヤの民に伝えられてきました。しかし律法も預言者の預言も完全ではなかったと主イエスは仰っているのです。もちろんだからといってそれらをおろそかにしていいと主イエスは仰っているわけではありませんし、その完全ではない律法、預言者の言葉ですらユダヤの民は従わなかったということですが。

 そして主イエスが律法を尊重しているということは18節から19節にかけて仰っていることでおわかりでしょう。ですが主イエスが仰っている律法とは律法学者やファリサイ派の人々が言い伝えとして足していった律法ではないということです。大切なことは神の御心なのです。そして神の御心は主イエスの山上の説教を含めた御教、御言葉にあるのです。主イエスの御言葉には神の本質が現れています。それは真理です。「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』」(ヨハネによる福音書8章31節から32節)

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイによる福音書5章20節) 律法学者やファリサイ派の人々はモーセの律法に様々な状況を考慮にいれて言い伝えも含めて律法として作り上げそれを人々に守るようにさせていました。それらを守ることこそ神に従うことであり、彼らが天の国に入ることが出来る条件であると考えていました。それが彼らの義です。しかしそれらは神の御心から離れていました。まさに本末転倒と言わざるを得ません。

主イエスは御教と御言葉によって神の御心を人々にお伝えになられました。そして最後は十字架の上で私達の罪の贖いをし、ご復活をされました。主イエスがお示しになられた義こそが律法学者、ファリサイ派の人々に勝る義であり、私達はその義を着ることによって、神の義にあやかることが出来るのです。

 

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