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「新しい神殿」

2025年2月2日 公現後第4主日

説教題:「新しい神殿」

聖書 : マタイによる福音書 21章12-16節(40㌻)​​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 本日の聖書箇所は宮清めと言われる聖書箇所です。私達の主イエスに対するイメージは柔和でお優しいというものです。ですがよくよく聖書を読んでみますと、結構厳しい方であるということがわかるかと思います。例えばファリサイ派の人たちや律法学者たちと論争する場面で主イエスが怒られ、厳しいことを仰っていることを目にします。また弟子達の無理解に怒られ、厳しい言葉を投げかける場面もありました。主イエスがこれから逮捕され十字架にかけられて殺されるということを弟子達に明らかにされたことがありました。その時ペトロがそのような事を言われてはなりませんと諌めたことを覚えているでしょうか?その時主イエスはペトロになんと言われたでしょうか?「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイによる福音書16章23節)もちろんこれにはしっかりした理由がありました。主イエスが十字架にお掛かりになられ死なれるのは私達の罪の贖いのためであり、それは父なる神のご意思であったからです。だからペトロの諫言はそれを無にしかねないものでした。

 本日の宮清めの聖書箇所も主イエスが怒られた場面です。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。」とマタイによる福音書21章12節に書かれています。私達の感覚で言うとどうなんでしょうか?例えばよく神社の境内なんかで食べ物や飲む物を売っているのを目にしますね。特にお祭りなんかの時はよく見ます。ですから物を売る行為というものは特別に悪いことのようには思えません。

 ではその当時の状況を見てみましょう。神殿にはユダヤ人しか入れない場所と異邦人の庭と呼ばれる異邦人が入れる場所が決まっていました。そしてこの異邦人の庭でこの事は起こりました。神殿に入るためには神殿税を納めなければなりませんでした。ローマの通貨で納められれば良かったのですがそれは出来ませんでした。ユダヤの通貨に変えなければいけませんでした。当然両替商が必要になってきます。さらに生贄を捧げるのですが、それは傷のないものでなければいけませんでした。そして外国の異邦人にとってそれを持ってくるのは骨の折れることでした。ですので手っ取り早くそこで買ってしまいたいという考えを彼らは持ってしまいます。そしてそのためにその生贄を売る商人が出てくるという次第です。そしてこの事は認められていたことでした。

 しかし主イエスはこの事に対して反対の立場を取り、過激な行動をお取りになられました。なぜでしょうか?確かに言われているところでは商人が両替や商売で利益を結構上乗せして暴利を貪っていたからということでした。確かに神聖な神殿で暴利を貪るのはいけないというのは理にかなったことです。私達の最近の世の中を見てみると腹をたててしまうことがあります。国会議員が長年にわたって申告すべきお金を申告せず、その事が明らかになっても修正申告をすることで許されてしまう。一方で同じことを一般国民がすればそれに対しての税金はもとより、懲罰的な税金、さらには逮捕、起訴ということもあるのにです。

 話が少し脱線し始めましたが、主イエスが怒られたのは何も商人が暴利を得ていたからということだけではないようです。なぜなら主イエスが追い出したのは商人だけでなくそのサービスを利用していた人々もだったからです。13節で主イエスはこのように仰っています。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』」この「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」とはイザヤ書56章7節の中の一部です。7節全体はこのように書かれています。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」イザヤ書56章は異邦人の救いについて語っています。ですからこの7節で「彼ら」というのは異邦人のことですね。ですが7節の最後には「すべての民の祈りの家」とも書かれています。つまり神殿は異邦人にとってもユダヤ人にとっても「祈りの家」つまり神聖なものであるということです。だからこそ神との正しい向き合い方が大切だということです。それは旧約聖書時代の祭司が神殿に入るために身を清めるようなことを主イエスは意識していたのかもしれません。私たちにとってはどうでしょうか?本日はこの後、聖餐式があります。その中でもこのような文言があります。「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲むことのないよう、自分をよく確かめて、聖餐にあずかりましょう。」                 

 旧約聖書の祭司の事、主イエスの宮清め、そして聖餐と話をしてきましたが、共通しているのは難しい言葉でいうと清め、聖化というものです。神様と私達との健全な関係ということです。これが大切だということです。これをおろそかにしたから主イエスは怒られたのです。

 14節で「境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。」とあります。このような人々も異邦人と同じくユダヤ人の人たちの場所に入ることが出来ませんでした。なぜならこれらの人々は汚れていると見なされていたからです。ですが主イエスは異邦人と同じく神を礼拝することにおいて差別を受けていた人々を気にかけ、いやされました。くしくも主イエスが引用された異邦人の救い、いや全ての民の救いの事を預言したイザヤ書56章7節が私達の心に響きませんか。

 さて本日の聖書箇所の15節から16節を御覧ください。  

祭司長たち、律法学者たちも主イエスと同じく怒りを発しました。なぜでしょうか?主イエスが奇跡を行い、目の見えない人、足の不自由な人をいやされました。そして子供を含んだ人々が主イエスをほめたたえたからです。極めつけは「ダビデの子にホサナ」という彼らの言葉です。当時メシアはダビデの子つまり子孫であると考えられており、ホサナとは元々は「救ってください」ということでしたが、神を褒め称える意味にもなりますから、主イエスをメシアとして神として褒め称えたわけです。その事について祭司長たち、律法学者たちは怒りを覚えたわけです。

 今私は主イエスの怒りと祭司長たち、律法学者たちの怒りについて話をしています。主イエスの怒りの動機はなんでしょうか?それは神に対して誠実に向き合っていないことへの怒りです。祭司長たち、律法学者たちの怒りの動機はなんでしょうか?彼らの主イエスへの嫉妬、主イエスの彼らへのこれまでの批判に対する反発です。それは彼らの主イエスへの言葉によって明らかです。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」ですね。それに対して主イエスは聖句でもって答えられています。「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」  

これは詩編8章2節から3節までの一部を引用されたものです。「主よ、わたしたちの主よ あなたの御名は、いかに力強く 全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き報復する敵を絶ち滅ぼされます。」  

主イエスは子供を含めた彼への賛美がいかに正しいかということをこの事によって明らかにされました。

 色々と話してきましたが、大切なことは私達が神様との正しい関係を持つということです。その事を求め、祈り、聖霊様に働いていただくことです。そして主イエス・キリストという本当の新しい神の神殿を見つめ信仰によって歩んでいくことです。

 

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