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「たとえで語るイエス」

2025年2月9日 公現後第5主日

説教題:「たとえで語るイエス」

聖書 : マタイによる福音書 13章10-17節(24㌻)​​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 たとえ話というものは人と話をする時に使うことがあります。何か複雑なことを説明し、相手に理解していただくために使うものです。何か有名なゲストスピーカーがスピーチをしたり、会社員が会議などでプレゼンテーションをする、営業先で商品を売るための商談をする、噺家(はなしか)さんなどが話をするなど様々な場面でこのたとえ話が使われることを思い浮かべるかもしれません。大切なことが一つあります。それはこのたとえ話を話した時、相手に理解してもらわなければならないということです。もっと言うならば理解してもらうだけでなく、共感してもらい、こちら側が願っている行動をしてもらわなければいけないということです。

 何か営業で物なりサービスを売る仕事をしていたとして営業先で説明をする機会が与えられたとしましょう。その物なり、サービスなりが複雑なもので相手がよくわからないとします。その説明を相手に難しい言葉で説明し続けたとしても進展はありません。このような時にこそ、たとえ話が有効になるのです。

 さて主イエスはこの地上で福音を宣べ伝えられていた時よくたとえ話をされていました。本日の聖書箇所の前の部分、マタイによる福音書13章3節から9節で主イエスはたとえ話を語られました。このたとえ話の意味することは本日の聖書箇所の後の部分18節から23節に書かれていて主イエスは弟子達に明らかにされました。


 さて私は最初、人がたとえ話を使う際に大切なことを説明させていただきました。それは相手に理解してもらわなければならないということです。もっと言うならば理解してもらうだけでなく、共感してもらい、こちら側が願っている行動をしてもらわなければいけないということです。ですがこのたとえ話を聞いただけでその意味することを理解できた人はいなかったのではないかと考えるのです。ということは私達のたとえ話の使い方から言えば主イエスのたとえ話の使い方は失敗したのではないかと思うのです。

 主イエスはこの地上で福音を宣べ伝えていました。いわば福音を人々に売り込んでいたわけです。もちろんこのような言い方をしますと批判をされるかもしれませんが。ですが、このように売り込んでいるとするならば、話し相手がそのたとえ話を理解し、共感し、福音を受け入れるようにしなければならないのにそれをしなかった。さらに言うならば主イエスの言葉には彼らが理解しないことをお望みになられているようなふしがあります。                     

「あなたがたには(弟子達には)天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(群衆)には許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼ら(群衆)にはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。」

(マタイによる福音書13章11節から13節)

先ほどから申し上げていますが、本来主イエスがこの地上に遣わされた目的はもちろん私達の罪の贖いのために十字架にお掛かりになられるためであったのですが、また同時にこの地上で御言葉と御業によって宣教するためであったということです。であれば、なぜ主イエスは弟子達だけでなく群衆にも福音を理解するようになされなかったのかということです。

 それにはやはり神の選びと計画というものがあると私は思うのです。11節「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」とありますが、この御言葉が端的に表しています。さらに言うならば主イエスはイザヤ書を14節から15節で引用しています。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。」

 このたとえ話では群衆は理解出来ないということでしたが、あるたとえ話では人々は理解できたが受け入れようとはしませんでした。ぶどう園と農夫のたとえ話をご存知でしょうか?マタイによる福音書21章33節から46節です。ある家の主人がぶどう園を作って農夫たちに貸し出して旅に出ました。収穫の季節が近づいたので、収穫を受け取るために彼の僕を何人か農夫たちに送りました。ですが農夫たちは僕達に乱暴を働いたり、殺したりしたということでした。最後に主人は彼の息子を送りました。ですが農夫たちは息子を殺したというなんとも酷い話です。これは何を意味するかというと農夫たち(ユダヤ人たち)が主人(主)に反逆し、僕達(預言者たち)を酷い目に遭わせてきたということ、そして主人の息子(メシアである主イエス・キリスト)さえも殺すであろうということを主イエスは仰っています。そしてやがてこのような酷いことをする農夫たちからぶどう園(神の国)は取り上げられ、季節ごとに収穫を納める農夫たちに貸し出されるということです。祭司長たち、ファリサイ派の人々はこのたとえ話を理解しました。どのように思ったのでしょう。この事を受け入れ、悔い改めて、主の赦しを求めたでしょうか?いいえ彼らは主イエスを捕らえようとしました。

 人々が主のたとえ話を理解することが出来るか出来ないか、たとえ理解できたとしてもそれを受け入れることが出来るか出来ないかというのは主の御心にかかっています。ですが私達に出来ることは、私達が主の御心を知り、主の御心にかなうよう聖霊の導きによって歩めるよう祈ることではないでしょうか?

 

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