top of page

「いやすキリスト」

2025年2月23日 公現後第7主日

説教題:「いやすキリスト」

聖書 : マタイによる福音書 15章21-31節(30㌻)​​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 主イエスがこの地上におられた時、御言葉と御業によって宣教をされていました。私達はその時の主イエスのイメージというものをお優しい方と考えがちですが、必ずしもそうではないということを私はこれまで聖書と説教で語ってきました。律法主義のファリサイ派や律法学者たちとの対立、理解の遅い弟子達への厳しい物言い、神の宮である神殿を商売の場にしてしまった人々に対する厳しい態度に主イエスの厳しさが現れています。本日の聖書箇所も主イエスの厳しい部分が垣間見える場面です。ですがその厳しい所にも主イエスの優しさが見える場面でもあります。

「イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐(あわ)れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。」(マタイによる福音書15章21節から22節)                

ここで注意すべき点がいくつかあります。ティルスとシドンの地方です。ここはユダヤ人にとっては異邦人の住む場所であり、この地で生まれたカナンの女性も異邦人であるということです。その女性が主イエスに彼女の娘をいやしてくださいと頼んでいるということです。

 そのカナンの女性の願いに主イエスはお答えにならなかったということです。弟子達は主イエスにこのようにお願いしました。                         

「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」(23節)            この弟子達は主イエスに彼女の娘をいやしてくださいとお願いしています。ですが彼らの物言いには何か棘(とげ)があります。それは「追い払って」や「叫びながらついて来ますので」という言葉に表れていますね。それは彼女が異邦人であったからです。もう何度か説教で申し上げてきたのですが、ユダヤ人たちは異邦人を区別してきたということです。彼らは神に選ばれた民であり、異邦人はそうではないと考えていたということです。つまり弟子達の心情としては彼女や彼女の娘に同情してぜひ彼女の娘をいやしてくださいというよりは、厄介事を主イエスに片付けてほしいと願っていたということですね。   

 さらに言うならば彼らがこの異邦人の地に来た理由は休むためでした。この出来事の前に主イエスと弟子達はファリサイ派の人々との論戦や人々をいやしたりで忙しかったので、この異邦人の地に来れば休めるだろうと思ったわけです。マルコによる福音書にも本日の聖書箇所と同じ内容が書かれています。

「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」(マルコによる福音書7章24節)        

とあります。「だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。」という言葉に彼らの思いが表されていますね。

 本日の聖書箇所に戻りますと、弟子達の願いに対して主イエスはこうお答えになられました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」

 この言葉どこかで聞き覚えはないでしょうか?主イエスが弟子達を派遣したことがありました。マタイによる福音書10章5節から6節です。「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。』」

 このようなこのような主イエスの御言葉を聞くと何か厳しいといいますか悪い言葉でいえば主イエスの弟子達と一緒で異邦人を区別しているのではないかと思う節があります。ですが24節の御言葉「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」は主イエスの父なる神の思いに忠実であることの表れであると考えられます。

 さてこの後主イエスとカナンの女性とやり取りが始まります。この女性はそう簡単にあきらめません。なおも食い下がります。「主よ、どうかお助けください」と女性は言い、主イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と仰いました。随分な物言いではあるのですが、それでも彼女はあきらめませんでした。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」(27節)

 このカナンの女性の言葉から私達は何を感じ取れるでしょうか?それは「へりくだり」と「信仰」です。彼女は自身をもしくは彼女の娘を小犬と呼ばれてもそれを受け入れました。それが「へりくだり」です。そしてあきらめ悪くそれを求めました。それが信仰です。ヤコブが主に祝福を願い格闘したことを覚えているでしょうか?創世記32章25節から30節です。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」という主の使いの言葉に対してヤコブは何と言ったでしょうか。

「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」です。            

またやもめと裁判官のたとえをご存知でしょうか。ルカによる福音書18章1節から8節です。やもめが無慈悲な裁判官のところへ来て相手を裁いてくれと繰り返し願い、最後この裁判官が裁判を行うという物語です。彼の言葉はこうでした。

「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。」          

この無慈悲な裁判官を心変わりさせ、このような言葉を言わせたやもめのしつこさを見てください。

 カナンの女性もまたヤコブやこのやもめのようなしつこさ、あきらめの悪さがありました。これこそが信仰です。だからこそ主イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と仰り、娘の病気がいやされたのではないでしょうか?

 私達もまたこの女性のへりくだりの姿勢としつこさを持てるよう主に願いたいと思います。そうすれば主は答えてくれると思います。

 

Comments


Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic

Copyright © 2025 浦和キリスト教会 All Rights Reserved.

このホームページサイトで使用しております聖書は全て、財団法人「日本聖書協会」発行の『聖書 新共同訳聖書』より引用させていただいております。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会(c)、 日本聖書協会 東京 1987,1988

bottom of page