「荒れ野の誘惑」
2025年3月16日 受難節第2主日
説教題:「荒れ野の誘惑」
聖書 : マタイによる福音書 4章1-11節(4㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
皆さん先週の礼拝は如何でしたでしょうか?皆さんにとって初めてのインターネット、ユーチューブでの礼拝出席であったと思います。何かと戸惑うこともあったことと思うのです。何人かの方々とお話をさせていただきましたが、概ね好評であったと思います。ですが実際の礼拝に出席することと比較すると良かった点あるいは残念な部分があったとは思います。4月からはインターネット礼拝が多くなってくると思いますので、江上先生の元でそこのところを調整しつつ礼拝をしていただければと期待をしております。
さて先週の週報にも書かせていただきましたが、5日の水曜日から受難節が始まりました。この水曜日のことを灰の水曜日、アッシュウェンズデーと言います。もう何度か申し上げていますのでまたかと思われるかもしれません。灰をかぶるということはその人が屈辱の中にいるということを表しているのです。自分は反省している、後悔しているということです。悔い改めという言葉が私達キリスト者にとってはしっくりきますね。つまり主イエスがこれから十字架での死のお苦しみを受けられることを私達は思い、灰をかぶって(実際には私達は灰をかぶりませんが、心で灰をかぶります。)、悔い改めることなのです。ちなみにこの日には額に灰で十字架の印を描かれることがあります。私もアメリカの神学校のチャペル礼拝に出席したとき、経験しました。
さて本日の聖書箇所です。主イエスにとって一番のお苦しみというと逮捕され、拷問され、やがて十字架の上で死を迎えるということであると考えるのですが、それ以前にも幾つかのお苦しみの経験があったと思われます。本日の聖書箇所は時系列的に見ますと、この地上での主イエスの伝道の後半部分である受難節の前、正確に言いますと主イエスが洗礼をお受けになられ、地上での伝道を始められる、いわば準備段階で起こったことです。もうすでにこの段階で試練をお受けになられたということです。
主イエス・キリストに従う道、信仰の道というものは厳しいものです。先週の主日礼拝で私は大阪の会場で皆さんはインターネットで教団理事長の説教を聞かれました。その中で主イエスに従ったからといって災いに遭わないというわけではない、むしろ大いに災いに遭うということを言われていましたね。ですが、そのような災いの中にあっても主イエスは私達をお助けになられるということを仰っていました。この災いに遭う、試練に遭うということを主イエスご自身が身をもってご経験されたのです。主イエスは神の御子であるから特別扱いをされて試練に遭わせないようにしようなんていうようなえこひいきを神はなさいません。一般国民には厳しく税金を取り立て、国会議員にはそれを優遇するというような国とは違うのです。むしろ率先して、御子を試練に遭わせ、私達に見本をお示しになられました。
随分長々と話してまいりましたが、本日の聖書箇所に入ります。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」(マタイによる福音書4章1節から2節)
ここでわかることが幾つかあります。まず初めに、主イエスが悪魔から誘惑を受けるという試練をご経験するのは神のご計画であったということです。荒れ野という場所は寂しく、人が生きるのに厳しい場所です。そしてそこは悪魔が住む場所、そして人が試練を受ける場所です。「"霊に導かれて”」という言葉がありますね。この"霊”とは聖霊のことです。聖霊は神の霊です。つまりこのことは神のご意思であり、ご計画であったということです。
さらに言うならば主イエスは神のご意思、ご計画に主体的に従ったということです。「"霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」とありますね。「"霊”に連れて行かれた。」わけではありません。ここに主イエスの父なる神への従順さがあります。
「そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。」とあります。あー四十日間も断食すればイエス様もお腹すくよね。私達じゃそんなの耐えられないよと思うかもしれません。確かに私もそう思います。ですがそれだけではないんですね。四十日間の荒れ野での断食ということで思い浮かべてほしいのは出エジプトでイスラエルの民が神によってエジプトから助け出されてから砂漠(荒れ野)で四十年間さすらったことです。彼らは神に助け出されたにもかかわらず、飲み物がない、食べ物がないと神に不平を言い、エジプトに戻ると言い始めました。神が彼らを荒れ野に導いたのは彼らの信仰を試すためであったと聖書に書かれています。そして見事に彼らは失敗しました。神は彼らに憤られました。そしてこの事ではなかったのですが、別の事でまた彼らは神への不信仰を示してしまいました。そのせいで四十年間荒れ野をさすらうことになり、現役の大人世代はその間に死に絶えてしまい、その次の世代が神がお示しになられた約束の地に入ることができたのです。
さて3節から4節にかけてですね。誘惑する者が主イエスに神の子ならば石をパンに変えて食べればいいだろうと誘惑しましたが、主イエスはその誘惑を退けました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という御言葉を主イエスは引用されました。当然主イエスは神の御子であるから石をパンにすることができました。しかもお腹がすいていました。人間が生きるうえで大切なことが3つありますがその中に食がありますからね。これはかなりの誘惑です。ですが主イエスはこの誘惑を退けられました。イスラエルの民は失敗しましたが、主イエスは成功されました。
神が主イエスをこの荒れ野に導かれたのは主イエスに試練を与え訓練するためでした。それはイスラエルの民に試練を与え、彼らを訓練するのと同じでした。それはモーセのイスラエルの民への遺言である申命記を見ればおわかりでしょう。
「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」(申命記8章2節から5節)
元の聖書箇所に戻りますと、次に悪魔は神の子であるならば、神殿の屋根から飛び降りたらどうかと主イエスを誘惑します。なぜなら、神は天使たちに命じて支えるからだと聖書に書いてあると悪魔が言います。悪魔はアダムとエバを騙したように狡猾です。しかも聖書を引用してそれをすることが正しいというふうに持っていっていますね、偽善です。さらに言うならば普通の人間なら持っているかもしれない、いわゆる自尊心(私は神の子であるのだからその力を示すのは当然だ。神殿の屋根から飛び降りても神に助けられるすごいだろう。)とか疑い(私は果たして神の子であろうか?わからないから試してみよう)をくすぐろうとします。しかし、主イエスは悪魔の偽善を見抜き、そのような感情をくすぐる悪魔の言葉を御言葉によって退けます。「あなたの神である主を試してはならない。」
次に悪魔は主イエスにすべての国々の栄華をみせて、もし主イエスが悪魔を拝むのであれば、これらの栄華を主イエスに与えようと誘惑します。これは「自分が世界を支配したい、お金持ちになりたい。豊かになりたい。」という私達の金銭欲、支配欲を刺激します。しかし主イエスがこれを御言葉によって退けます。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」
この荒れ野での誘惑は主イエスにとってのどういう意味を持っていたのでしょうか?それは神から主イエスを遠ざけることでした。神のご計画、ご意思から主イエスを遠ざけることでした。主イエスは御自分が逮捕され、乱暴され、十字架につけられ、殺されることを弟子たちに表明しました。そうすることで私達の罪の贖いをするという神のご計画でありました。しかしペトロはそれを諌めました。それは神のご意思、ご計画から主イエスを遠ざけることでした。つまり、この荒れ野での悪魔の行為と同じことです。この悪魔もまた主イエスを神から、神のご意思から、神のご計画から引き離そうとしたのです。10節で主イエスが悪魔に言われた言葉は何だったでしょうか?「退け、サタン。」です。ペトロが主イエスを諌めたとき、主イエスが言われた言葉です。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイによる福音書16章23節)もちろん、ペトロはこの荒れ野での誘惑で悪魔のように意図的に主イエスを神から引き離そうとしたわけではないと思います。しかし神の事を思わず、人の事を思い、自分の思いを押し付けることによって結果として、荒れ野の悪魔と同じことをしていたのですが。
さて誘惑であれ、試練であれ、大切なことは神の御心に従うことです。そしてそれらを通して、私達の信仰は鍛えられるのだということを忘れてはいけないのです。みなさんもご存知かと思いますが、教団の年会に行かせていただきました。その中で素晴らしい話し合い、交わり、礼拝でした。ですがその中で按手礼の最終面談を受けました。とても厳しい内容の質問でしたが、その事を通して成長させていただきました。私にとって忘れられない面談と按手礼式となりました。本当に感謝しております。皆さんにとっての試練は何でしょうか?主はその事を通して私達の成長を期待しています。あらためて申し上げます。大切なことは神の御心に従うことです。
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