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「イエスの洗礼」

2025年1月12日 公現後第1主日

説教題:「イエスの洗礼」

聖書 : マタイによる福音書 3章13-17節(4㌻)​​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 本日は公現後第1主日礼拝です。公現日というものがありまして、それは主イエスが洗礼者のヨハネから洗礼を受けられる日です。その日が1月6日(月)でしたので今日が公現後第1主日礼拝ということになります。主イエスがお生まれになってから洗礼をお受けになられるまでにも様々な出来事がありましたし、これまで私は説教をしてきました。ですが主イエスが洗礼をお受けになられることが公に世に現れたと見なされているのです。そしてそれは正しい考え方であると思われるのです。洗礼を受けるということは主イエスを救い主として受け入れるということを自分自身と自分以外の人々に正式に発表することであり、教会の人々が正式にそれを認めることです。そうして教会員として認められ、聖餐にあずかることが出来るのです。いわば洗礼を受けることはクリスチャンとしての人生をスタートさせることです。主イエスがこの地上での伝道・牧会の人生をスタートさせるために洗礼をお受けになられるのは当然といえば当然のことでした。

 さて本日の聖書箇所ですが、主イエスがガリラヤからヨルダン川の洗礼者のヨハネの所へ洗礼を受けるために来られました。ですがヨハネはそれを思いとどまらせようとしました。なぜでしょうか?まず初めに洗礼者のヨハネが授けていた洗礼とはどういったものだったのでしょうか?マルコによる福音書1章4節から5節「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」とあります。つまり彼が授けていた洗礼は罪人の悔い改めと主による赦しです。

 さて今回主イエスが洗礼者ヨハネの所に来られました。主イエスは罪を持っていたでしょうか?主イエスは罪を持っておらず、罪人ではありませんでした。ですから罪を悔い改める必要はありませんでした。そういう意味では主イエスは洗礼をお受けになる必要もなかったわけです。さらに洗礼者ヨハネが洗礼をお受けになろうとする主イエスに言った言葉に注目します。                

「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

(マタイによる福音書3章14節)        

常識的に考えれば上の者が下の者に何か貴重な物を与えるのが普通です。ヨハネ自身が本日の聖書箇所の前で語っています。      

「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」

(マタイによる福音書3章11節)           


 また洗礼とは別ですが祝福を考えてみましょう。祝福もまた上の者が下の者に与える物です。父イサクが息子エサウに祝福を与えようとした事がありました。創世記27章1節から40節です。当然父であるイサクが立場上上ですから下の者である息子エサウに祝福を与えようとするわけです。実際は母であるリベカと弟のヤコブによって祝福を取られてしまうわけですが。またヤコブが御使いと格闘をした場面を覚えているでしょうか?創世記32章23節から33節です。ヤコブはその主の御使いに祝福を求め、御使いは祝福を与えました。それは御使いがヤコブより上だったからです。ヤコブはエジプトで亡くなる前に息子たちに祝福を授けました。創世記48章から49章28節です。さらにヘブライ人への手紙の著者は祭司であるメルキゼデクがアブラハムを祝福し、アブラハムは彼にすべての物の十分の一を与えたことを語っているが、その中で「下の者が上の者から祝福を受けるのは、当然なことです。」という文があります。(ヘブライ書7章7節)


 こういうことを考えると主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けるのはおかしいのです。だからヨハネはそれを思いとどまらせようとしたのです。

 ですが主イエスはこのように答えられました。            

「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」

(マタイによる福音書3章15節)             

主イエスが洗礼をお受けになることは正しいことだと言っているのです。なぜ正しいと主イエスは言われたのか。確かに罪もない、悔い改める必要がない、そしてヨハネより上の者である主イエスが洗礼を受けることは理屈に合わないわけです。ですが主イエスはそれが御父の御心であり、御父の御計画であるということをご存知であったのだと考えられます。私達の人間的な理屈ではおかしいと思うのですが、御父のお考えはそれを超えるのです。御父の御心、御計画では主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになることは正しいことであったのだと思うのです。

 それでもあえて人間的な理由で推察するのであれば、何事においても準備というものは必要であるということだと考えます。私は先程、洗礼というものがクリスチャン人生のスタートであると言いました。   

主イエスにとってもこの洗礼が伝道のスタートであると御父がお考えになられたのだと思うのです。主イエスは洗礼をお受けになられた後、荒野で悪魔の試みに遭われそれに打ち勝ち、弟子たちを集め、伝道を行い始めます。これらすべてが主イエスにとっての糧であり準備であったと思うのです。そしてそのように御父が御計画されたのです。この御計画は十字架での死まで、いや死んだ後ご復活(イースター)、ペンテコステ、その後の伝道まで続いているのです。

 準備というものは大切なものです。私がこの浦和教会に赴任するまでに多くの準備をしてきました。まずナザレンの教会に1年間通いつつ、ナザレン神学校の教科を取りました。その後ナザレン神学校に正式に入学し、1年間神学校で学びつつ、教会で奉仕をさせていただきました。そうして神学校を卒業し浦和教会に派遣されました。もちろん私の準備は御父が主イエスにご準備された御計画に比べればわずかなものかもしれません。ですがやはり御父もわたしのためにご準備されたのだと思います。それだけでなく御父は皆さんそれぞれに御計画に従って準備をされていると思います。

 さて私が先程申し上げた15節の主イエスの言葉にはまだ意味があります。それは主イエスの御父への従順さです。へりくだりです。私は神の御子であって罪がないから洗礼を受ける必要がないんだとか私は上なんだといったおごり、高ぶりがありません。よくいますよね。私は誰々といった有名人の息子、娘なんだと公言する人たち。主イエスはそういうこととは関係ありませんでした。

 主イエスが洗礼をお受けになった後に御父からしるしと言葉が与えられました。「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」

(マタイによる福音書3章16節から17節)

 これは主イエスのへりくだりの姿勢が御父に受け入れられたからにほかなりません。大切なことは聖霊の導きによって主との交わりを持ち主の御心が何であるのかを知り、へりくだりの心を持つことではないでしょうか?

 

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