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「主イエスを喜び迎え、歩み続けよ」

説教題 「主イエスを喜び迎え、歩み続けよ」

説教者 稲葉基嗣神学生

聖書  創世記1:1-5、コロサイの信徒への手紙2:6-10

【何を受け入れるべきなのか?】

世の中には、さまざまな情報が溢れています。

目や耳を通して、それらの情報は私たちの内にあまりにも簡単に入ってきます。

そして、私たちは様々な情報を知らず知らずのうちに受け取り、受け入れています。

でも、それらすべての情報を鵜呑みにして、全部受け入れることなど、

もちろんできませんし、するべきではありません。

それは十分わかっています。

しかし、正直何が重要かなど、すぐにはわかりません。

私たちにとって、一体何が必要で、何が不必要なのでしょうか。

何が正しい選択で、何が悪い選択なのでしょうか。

一体私たちは何を受け入れて生きていけば良いのでしょうか。

【哲学や虚しいだましごとに気をつけなさい】

今日、私たちに与えられたコロサイの信徒への手紙のテキストで、 著者は読者にこのように警告しています。

人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。(コロサイ2:8)

このような著者の警告から、コロサイの教会の人々の周囲で、 「哲学」と呼ばれるような、ある教えが流行っていたことがわかります。

この「哲学」に心を奪われ、虜にされる危険にコロサイの人々は立たされていたのです。

ですから、著者はこの「哲学」について、「人間の言い伝えにすぎない、むなしいだまし事」であると警告しています。

では、その「哲学」とは、一体どのような教えだったのでしょうか。

コロサイの人々の周囲で流行っていた「哲学」。

それは、世を支配する霊に従うことを求めるものでした。

そして、その「哲学」はこのように教えたのです。

キリストはそれら多くの霊の中の一人にすぎない、と。

この教えを聞いた時、コロサイの教会の人々は心が揺れたことでしょう。

というのは、その教えはキリストを否定せずに、キリストを認めていたからです。

つまり、キリストを信じながら、他のものに従うことも可能だったのです。

そのため、コロサイの人々は戸惑ったことでしょう。

この教えを本当に受け入れても良いのだろうか。

それとも、拒否すべきなのだろうか。

何が正しくて、何が間違っているのだろうか、と。

【私たちは何者なのか?】

このような戸惑いを抱いているコロサイの人々に対して、著者は語り掛けたのです。

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。(コロサイ2:6)

著者はこう語り掛けることによって、読者が何者なのかを思い出させるのです。

「あなたたちは主キリスト・イエスを受け入れた者である」と。

この言葉は単に、コロサイの人々はキリスト・イエスに従っている者である、と言っているわけではありません。

彼らが受け入れたのは、「主」キリスト・イエスです。

ただ一人の私の主、ただ一人の私の主人として、彼らはキリストを受け入れたのです。

著者は、彼らにそのことを思い出させようとしているのです。

世の中にはさまざまな「主」が存在します。

また、様々な人々が私たちの「主」になろうとしてきます。

王、皇帝、天皇、総理大臣、会社の上司、親、友人、そして自分自身。

私たちの周りには、様々な「主」がいるのです。

しかし、著者は読者に向かってこう言い切るのです。

私たちの主は彼らではない、と。

キリスト・イエスこそが、私たちの唯一の主である。

王は私の主ではない。 皇帝も、天皇も、総理大臣も、会社の上司も、親も、友人も、私の主ではない。

そして、自分自身さえも、私の主ではない。

キリストを信じる者の主は、主キリスト・イエスのみだ。

あなたたちはそのことを受け入れたのだ、と。

【二重生活への警告】

さて、キリスト・イエスを主として受け入れた人々に対して、著者はこのように語り掛けています。

キリストに結ばれて歩みなさい。(コロサイ2:6)

この「歩みなさい」という言葉は、「生活しなさい」と訳すことが出来る言葉です。

それは、キリストに結ばれて生きる生活は、瞬間的なことではないということを意味しています。

キリストを主として受け入れた者は、 常に、主イエスに結ばれて生きるようにと勧められているのです。

なぜこのように勧められているのでしょうか。

それは私たちには、二重生活の危険があるからです。

この瞬間では、キリストを主として受け入れる。

しかし、この時は、自分が私の主人である。

またこの時はお金が自分の主人であるといったように。

しかし、「そうであってはならない」と、著者は私たちに訴えてくるでしょう。

そして、彼は私たちに励ましを与えるのです。

全く自分の信仰とは関係の無いような事においても、

「イエス・キリストは私たちの主である」と告白する生き方をしようではないか、と。

イエス・キリストを自分の主として、喜んで迎えて欲しい。

主イエスを喜び迎えて、歩み続けて欲しい。

これが著者のコロサイの人々に対する願いなのです。

【神が私に働きかけてくださった】

では、著者の言う「キリストに結ばれて歩む」とは、具体的にはどのような歩みなのでしょうか。

7節で彼はこのように説明しています。

キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。 (コロサイ2:7)

面白いことに、聖書の元の言葉であるギリシア語で、ここに書かれている言葉を見てみると、すべて受け身の形で表現されています。

たとえば、「キリストに根を下ろして」を直訳してみると、

「キリストにあって根を下ろされ」となるように、「~される」という表現が使われています。

この箇所を直訳してみると、このようになります。

キリストにあって根を下ろされ、造り上げられ、教えられた通りの信仰を堅固にされ、感謝のうちに溢れるほど豊かにされて、あなたたちはキリストに結ばれて歩み続けなさい。(コロサイ2:6-7、私訳)

キリストに結ばれて歩み続けるために、私たちがすべきことは何なのか。

そのような思いを抱いて読んでみたのに、私たちは「~される」という受け身の表現に出会うのです。

私たちは自分の力で何かをしたがります。 もちろんそれも大切なことです。

しかし、だからこそ、私たちは知るべきなのです。

神が、キリストを通して、私たちに働きかけてくださっている、ということを。

神が、キリストを通して、私たちを造り上げ、私たちの信仰を確かにしてくださる、ということを。

私たちの毎日の歩みを支えてくださっているのは、神なのです。

そして、この神が、私たちを溢れるほど豊かにしてくださるのです。

【初めに、神が】

さて、今日はコロサイの信徒への手紙と一緒に、創世記を開きました。

そこでは、このように書かれていました。

初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1)

私たちは使徒信条で告白しているように、「天地の造り主」である神を信じています。

この世界を造られた神を信じる私たちの信仰は、 創世記で宣言されているように、

「初めに、神が」と告白する信仰です。

「初めに、神が」私たちに働きかけてくださったのです。

この世界を造られた方が、私たちに目を留めて、 私たちに働きかけてくださったのです。

創世記を読む時、神の創造の壮大さに私たちは驚きを覚えます。

「初めに、神が」という出来事が、どのようにして起こったのかが劇的に描かれているからです。

2節から3節に、このように記されています。

地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1:2-3)

混沌、それはぐちゃぐちゃに入り混じっていて、わけがわからない状態です。

そのような混沌で、闇の内にあった世界に、神が働きかけたのです。

「光あれ」と。 はじめに神が働かれることで、この闇の広がる世界に光が与えられたのです。

そして、はじめに神が働きかけることによって、

混沌である世界に秩序がもたらされていく様子を、創世記1章は描いているのです。

創世記1章は天地創造についてのみ述べている箇所ではありません。

人間の罪は、争い、不和、不信などを生み、この世界に混沌や闇をもたらします。

いつの時代にも、闇や混沌があるのです。

その中に、「はじめに神が働かれる」と聖書は宣言しているのです。

そして、はじめに働かれる神が、私たちに与えてくださった一番の贈り物が、主イエス・キリストなのです。

主イエスの誕生を私たちはアドベント、そしてクリスマスを通して祝ってきました。

主イエスは、すべての人々のために来られたのです。

ですから、私たちがすべきことは、この主イエスを喜んで迎え入れることです。

そして、主イエスと共に歩み続けるのです。

その歩みは受け身であり続ける歩みです。

神こそ、私の主であると認め、 神が私たちにしてくださることを、受け止め続ける歩みです。

それは、神から与えられているものが、私たちの内で豊かに溢れる歩みなのです。

【主を喜び迎えよ】

さて、日常の中で、私たちの耳には何が聞こえてくるでしょうか。

毎日、この目には何が映るでしょうか。

この世の中には、さまざまな情報が溢れています。

そして、私たちは様々な情報を知らず知らずのうちに受け取り、受け入れています。

そして、それらのものは私たちに語り掛けてくるのです。

キリストよりもこっちの方が頼りになるぞ、と。

そんなささやき声が聞こえてくるのです。

しかし、私たちは主イエスを喜び迎え、歩み続けようではありませんか。

私たちが行くすべての場所に、神が働かれるのですから。

すべての場所で、神は私たちの主です。

そして、そのすべての場所において、神は「初めに」働かれます。

天地を造られた主が、はじめに働かれるのです。

日々の歩みの中で、初めに私たちが何かをするのではありません。

神が初めに働きかけ、私たちの歩みを支えてくださるのです。

キリストにあって根を下ろされ、造り上げられ、教えられた通りの信仰を堅固にされ、感謝のうちに溢れるほど豊かにされて、あなたたちはキリストに結ばれて歩み続けなさい。(コロサイ2:6-7、私訳)

さぁ、私たちはこの1年も、主イエスを喜び迎え、歩み続けようではありませんか。

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