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「ここは神の家」

説教題 「ここは神の家」

説教者 稲葉基嗣神学生

聖書 マラキ書3:1-4、ヨハネによる福音書2:12-22

【イエスの怒り】

一体どうしたことでしょうか。

イエス様が神殿で怒りを覚えて、鞭を手に持って行動したというのです。

ヨハネはその時の光景を、このように記しています。

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し」(ヨハネ2:15)た、と。

このようなイエス様の姿を想像する時、正直、戸惑いを覚えます。

なぜイエス様はこのような行動を取ったのでしょうか。

このような怒りに、イエス様を駆り立てたものは、一体何だったのでしょうか。

【イエスが見つめたもの】

この出来事が起こったのは、過越祭という、ユダヤ人にとって重要な祭りが行われる時期のことでした。

エルサレムの30キロメートル圏内に住む、すべての成人したユダヤ人男子は、この祭りに出席する義務がありました。

そのため、イエス様も弟子たちと共にエルサレムに上って来ました。

イエス様も他のユダヤ人と同じように、神を礼拝しに神殿に来たのです。

神殿に着いて、イエス様は辺りを見回してみると、おかしな光景が目に留まったのです。

それは、人びとが神殿の境内で牛や羊や鳩を売り買いしている姿、

そして、人びとがお金を両替している姿でした。

【神殿で商売がなされていた理由】

この当時、多くのユダヤ人はエルサレム以外の場所に住んでいました。

たとえエルサレム神殿から遠く離れた場所に住んでいたとしても、 一生に一度はエルサレムで過越祭を祝いたい。

このことは、すべてのユダヤ人の夢であり、目標でした。

しかし、普段は外国に住むユダヤ人たちにとっては、

犠牲の捧げ物を、遠いところから連れてくることは、とても難しいことでした。

というのは、犠牲の捧げ物は、完全で、傷がなく、汚れないものでなければならなかったからです。

エルサレムへ向かう途中、捧げ物に傷が付いてしまったら、

その捧げ物にする動物を連れて来た労力が無駄になってしまいます。

ですから、神殿の境内で犠牲の捧げ物を買うことができるのは、

外国に住むユダヤ人たちにとって、必要なことでした。

神殿に牛や羊や鳩を売る人びとがいるのは、当然のことだったのです。

両替人がいたのも、似たような理由です。

神殿に納める税金として、外国のお金を使うことができなかったからです。

このように、当然の配慮がなされる形で、神殿で商売や両替がなされていたのです。

【ここは、商売の家ではなく、神の家】

もちろんその事情をイエス様は知っていたことでしょう。

しかし、それを知りながらも、イエス様はこの光景に怒りを覚えて、行動したのです。

そしてイエス様はこのように言われました。

「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:16)

イエス様が怒りを覚えた理由。

それは、「神の家」である神殿が、「商売の家」になっていたことでした。

神殿に来た人びとは、犠牲やお金のことに目が向いていました。

そして、商売人や両替人たちは、自分たちの仕事にばかり目が向いていました。

誰も、神を見る者はいなかったのです。

神殿が、商売の家に成り下がっている現状を見つめ、イエス様は悲しみを覚えたのです。

そのため、イエス様は怒りを覚えて叫んだのです。

ここはわたしの父の家だ。

ここは神の家だ。

あなたがたは、商売に目を向けるために、ここに来たのではない。

犠牲の捧げ物や、お金はもちろん大切だが、 それに目を向けるために、ここに来たのではない。

神に目を向けるために、この神殿に来たのではないか。

イエス様は、そのように問い掛けているのです。

だから、このように言ったのではないでしょうか。

「このような物はここから運び出せ」と。

【霊と真理をもって礼拝する時が来ている】

しかし、イエス様の行動と発言の通りになった場合、

神に捧げる捧げ物が、手元からなくなってしまうことに気付きます。

その上、イエス様は神殿さえも必要がないような言い方をするのです。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2:19)と。

この言葉を通して、イエス様は自分が十字架で死んで、三日目に復活することを預言しました。

しかし、イエス様は壊された神殿を建て直すとは言わないのです。

寧ろ、イエス様はこの神殿が壊され、壊れたままでいることを望んでいるかのようです。

イエス様の行動と発言は、人々から捧げ物を取り去るだけでなく、

神を礼拝する場所である神殿をも取り去るものだったのです。

不思議なことに、イエス様の言葉を受け入れた結果、人々に残されたものは、何もなかったのです。

捧げ物も、神殿も、必要ないならば、一体どのように神を礼拝すれば良いのでしょうか。

この問題について、イエス様は、あるサマリヤ人の女性との会話の中でこのように答えています。

イエス様はこのように言われました。

ヨハネによる福音書4章21節と23-24節をお読みします。

4:21婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…… 4:23まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。(ヨハネ4:21, 23-24)

【ここは神の家】

神は霊である。

これがイエス様の答えでした。

神は霊であるから、特定の場所に縛られることはないのです。

私たちは、神殿や教会でのみ、礼拝をするのではありません。

何処にいても、どんな時でも、神を礼拝する者です。

それは、どんな場所にいても、「ここは神の家である」と告白して生きることです。

神への礼拝は、この礼拝堂で、毎週日曜日の午前中のみにするものではありません。

私たちの日々の生活が、私たちの生涯が、神の礼拝なのです。

私たちの行くすべての場所は、私たちがいる故に、神の家なのです。

神を礼拝する場所なのです。

【神への捧げ物】

では、このような礼拝における神への捧げ物とは、一体どのようなものなのでしょうか。

イエス様は、牛や羊、鳩を追い出されました。 神への捧げ物を取り去られました。

残ったのは、私たちの身体です。

ですから、イエス様は、私たちにこのように勧めているのではないでしょうか。

あなた自身が、神の前に出て行きなさい。

そして、あなた自身が持っているものを、神に捧げなさい、と。

私たちは、私たちに与えられているものによって、神を礼拝するように招かれているのです。

私たちに与えられているものは、数多くあります。

家族、毎日食べるもの、飲む水、必要なものを買うためのお金、友人関係、住む家、仕事、そして、この身体。

本当に多くのものが私たちに与えられています。

だから使徒パウロは、コリントの教会に向けてこのように書いたのです。

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(Ⅰコリント10:31)

パウロが勧めているのは、神から与えられているすべてのものを通して、神の栄光を現す生き方です。

私たちの生涯が、神への礼拝で溢れることを、

そして、私たちが神の栄光を現す真の礼拝者になることを、神は望んでおられるのです。

ですから、神を礼拝し続ける歩みを、私たちは続けていこうではありませんか。

この教会を出て日常に戻る時、私たちは一人で神を礼拝することばかりかもしれません。

しかし、希望を持ち続けて神を礼拝し続けていきましょう。

「ここは神の家である」という告白に溢れる、真の礼拝者として歩んで行こうではありませんか。

やがて、すべての聖徒たちと共に、神を礼拝する時が訪れることを期待しながら。

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