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「死の先に復活を望み見て生きる」

説教題「死の先に復活を望み見て生きる」

聖書 哀歌3:19−24、ヨハネによる福音書19:38−42

説教者 稲葉基嗣牧師

【イエスを葬った、ヨセフとニコデモ】

イエス様が死なれたすぐ後、二人の人がイエス様の葬りに関わったそうです。

その二人とは、アリマタヤ出身のヨセフと、ニコデモという人たちでした。

彼らは、イエス様の十二人の弟子たちのように、いつもイエス様のそばにいたわけでも、イエス様と親しい間柄であったわけでもありませんでした。

ヨハネは、アリマタヤ出身のヨセフについてこのように書いています。

その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。(ヨハネ19:38)

ヨハネによれば、このヨセフという人は、

ユダヤ人を恐れて、イエス様の弟子であることを隠して生きていたようです。

心ではイエス様を信じ、受け入れているけど、

人前でイエス様の弟子として生きることは、彼にはできなかったようです。

また、ニコデモも、隠れてイエス様の弟子として生きていた人でした。

「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」(ヨハネ19:39)、とヨハネが紹介しているように、

ニコデモは、かつてイエス様を訪ねたことがありました。

しかし、彼がイエス様を訪ねた時間帯は夜中でした。

人目を避けて、誰にも気付かれぬよう、イエス様に会いに行ったのです。

ニコデモも、ヨセフと同じように、表立って「私はイエス様の弟子です」とは言えなかったのです。

しかし、そんな彼らがイエス様の葬りに関わったというのです。

周囲の人々の目を恐れて、イエス様の弟子として生きることの出来なかった、彼らが、

イエス様の遺体を引き取って、その遺体を墓におさめたのです。

【主イエスを葬る動機】

一体、なぜヨセフとニコデモは、このような行動をとったのでしょうか。

イエス様の遺体が、このまま放置されるのを見ていられなかったからでしょうか。

もちろん、それも理由のひとつでしょう。

当時、十字架に架けられて死んだ犯罪者たちの死体は、粗末に扱われ、

谷間に投げ捨てられて、野の獣のエサになることもあったのですから。

彼らは、イエス様が死んだ後も、そのような辱めにあうことが耐えられなかったのでしょう。

しかし、それは彼らの行動の一番の動機ではなかったと思います。

彼らの動機は、イエス様が死に向かって歩んでいく姿を見たからでしょう。

彼らはユダヤの指導者であり、ユダヤの最高議会サンヘドリンの一員でした。

ということは、イエス様が十字架に架けられるまでのその一部始終を、彼らは見ているのです。

彼らは、イエス様が語った言葉を、噂で聞いていたことでしょう。

イエス様はあるとき、こう言われました。

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:10−11)

そして、このように語られたイエス様が、弟子たちに裏切られて、裁判にかけられ、

鞭打たれ、罵られ、死んでいく、その姿を彼らは見ていたのです。

たとえ隠れていたとしても、彼らはイエス様の弟子であることは変わりない事実でした。

だから、イエス様が十字架に架けられるその姿を見つめた時、

彼らの心に迫るものがあったのではないでしょうか。

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:10−11)

かつてイエス様が語った言葉が心に響いてきたことでしょう。

今まさにイエス様は、ヨセフとニコデモの目の前で、命を捨てたのですから。

彼らは、十字架の上で死なれたイエス様の姿を見て、

イエス様がこれまで語ってきたことを完全に理解することはできなかったでしょうが、

それでも、理解したのではないでしょうか。

イエス様はただ死んだのではない、ということを。

イエス様の死は、良い羊飼いが羊のために命を捨てることであったということを。

羊、つまりすべての人の命を救うためです。

このイエス様の死を目撃した時、彼らは本当の意味で弟子となったのです。

だから、彼らは自ら名乗り出て、愛するイエス様を葬ったのではないでしょうか。

この葬りは、彼らがイエス様の弟子であり、

イエス様を愛しているからこそ、なされたものなのです。

【悔い改めつつ、葬る】

しかし、そうだとすれば悲しすぎます。

ヨセフとニコデモが、ようやくイエス様に従う者になれたと思ったら、

そのときには、イエス様は既に亡くなっていたのですから。

死は残酷に、私たちから様々なものを奪っていきます。

これまで積み上げてきたもの、作り上げてきたものを無意味にします。否定します。

死んだ者と、生きている者を、死は容赦なく切り離します。

愛する人が、もう既にここにはいない。

この事実が、悲しみや嘆きをもたらすのです。

ヨセフとニコデモにとって、イエス様の死はそのようなものでした。

イエス様を「殺せ。殺せ。十字架につけろ」(19:15)と叫ぶ群衆と一緒に、

彼らは声を上げることはしなかったでしょう。

しかし、群衆に対する反対の声を上げることはできませんでした。

その場にいて彼らは傍観者になり、イエス様が死に行くのをただ見ていただけでした。

イエス様のために何もできなかったことに、一体どれほど後悔したことでしょうか。

悲しいことに、自分の身を守ることばかり考えてしまう、自分の姿がそこにあったのです。

イエス様の葬りについて、今日のテキストは淡々と描かれていますが、

この箇所の背後に、どれほどの悲しみと嘆きがあるのかは、計り知れません。

【神の慈しみ・憐れみは絶えない】

しかし、私たちは、この葬りの後も、福音書が続いている事実に目を向けるべきです。

物語は決して、死では終わらないのです。

福音は決して、死で終わるものではないのです。

この死に対して、主イエスは勝利されたという事実に、私たちは目を向けるように招かれているのです。

死による悲しみや嘆きの先に、復活の喜びが希望として示されているのです。

旧約聖書の哀歌は、悲しみと嘆きの歌です。

詩人は嘆きを歌い続け、その嘆きの中でこのように歌っています。

主の慈しみは決して絶えない。

主の憐れみは決して尽きない。

それは朝ごとに新たになる。

「あなたの真実はそれほど深い。

主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い

わたしは主を待ち望む。(哀歌3:22−24)

神の慈しみ、神の憐れみは絶えることも、尽きることもないのです。

そして、それは生きているときのみに注がれるのではありません。

死に際してもなお、神の慈しみは決して絶えないのです。

死に直面している時にあってもなお、神の憐れみは決して尽きないのです。

私たちの希望は神にあるのです。

それはヨセフとニコデモの確信でもあったことでしょう。

だから悲しみや嘆きの中にありながらも、彼らは希望をもってイエス様を葬ったのです。

主の憐れみは決して尽きないという確信があるから、

彼らは神の御手にイエス様を委ねたのです。

この死という現実に、神が慈しみと憐れみとをもって、働き掛けてくださると信じて。

【すべての失望を受け入れ、神に委ねる】

神の憐れみは決して絶えない。

これが私たちの確信です。希望です。

ですから、私たちはすべてを受け入れることができるのです。

喜びや希望だけでなく、悲しみも、失望も受け入れることができるのです。

そして、神の憐れみは決して絶えないという確信のもとに、

私たちはすべてのことを神に委ねるのです。

神の御手に委ねるとは、与えられている物事を投げ出すという事では決してありません。

ヨセフとニコデモは、復活を望み見て、神の御手に委ねると共に、出来る限りのことをしました。

復活を望み見て生きるから、

私たちはあらゆることを神の御手に委ねることができるのです。

決して投げやりにならずに、すべてのことに希望をもって取り組んでいくことができるのです。

私たちを失望させる数多くの物事に対してもです。

神の憐れみは絶えず、私たちに注がれているのですから。

死の先に復活があるという希望を望み見て、私たちは日々歩んで行きましょう。

神の憐れみと慈しみは決して絶えることがないのですから。

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