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「私たちが携えるのは、希望の言葉」

説教題 「私たちが携えるのは、希望の言葉」

聖書 イザヤ書25:6−9、ヨハネによる福音書20:11−18

説教者 稲葉基嗣牧師

【私たちが流す涙】

どのような時に、私たちは涙を流すでしょうか。

私たちは日々、様々な涙を流します。

悲しみを覚えた時。

感動した時。

目にゴミが入った時。

誰かに失望した時。

誰かの話に共感を覚えた時。

現実を突きつけられて、落胆した時。

悔しさがこみ上げてきた時。

かけがえの無い人を失った時。

このように、私たちは日常の中で、様々な涙を流します。

いつか泣き止むことは、経験上わかっています。

しかし、失望や落胆、そしてかけがえのないものを失ったときに流す涙は、

なかなか止むことがありません。

【マグダラのマリアの涙】

今日、与えられたテキストを見る時、一人の女性が泣いている場面に出くわします。

11節を見てみましょう。

マリアは墓の外に立って泣いていた。(ヨハネ20:11)

墓の前で泣いていた女性の名前は、マリア。

1−10節を見てみると、彼女は空っぽの墓を見つめたとき、

急いで、弟子たちのもとへ行ったことが記されています。

彼女は弟子たちのもとへ行き、彼らにこのように報告しました。

「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(ヨハネ20:2)

それは、愛するイエス様の亡骸がなくなってしまったという、嘆きの報告でした。

弟子たちに報告した後、どうやら彼女はまた墓に戻ってきたようです。

そして、墓を見つめて、彼女は涙を流し続けたのです。

彼女の泣いている理由は、13節に記されています。

「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(ヨハネ20:13)

弟子たちに報告した時と同じことを、彼女は言っています。

「主が取り去られた」(20:13)、と。

この事実を、彼女は最初のうちは受け止めきれなかったのでしょう。

しかし、弟子たちにこのことを報告して、また墓の前に戻ってきた時、

自分の語った言葉の意味が、次第にわかってきたのです。

そう、イエス様がいないという現実を、彼女は知ったのです。

イエス様の遺体は、盗まれたわけではありませんでした。

弟子たちに報告をして戻ってきた今も、その行方はわかりません。

愛するイエス様が、何処にもいないのです。

イエス様を失ったことに対する悲しみが込み上がり、マリアは涙を流し続けたのです。

「マリアは墓の外に立って泣」(ヨハネ20:11)き続けたのです。

彼女のこの姿を通して、彼女がイエス様をどれほど愛していたかが伝わってきます。

この時、マリアはイエス様のいない墓を見つめながら、

イエス様と交わした言葉や、イエス様が行ってきたことを思い起こしたことでしょう。

しかし、イエス様のことを思い出せば思い出すほど、涙は溢れてきます。止まりません。

何より、イエス様がどのようにして死なれたかを思い起こすと、

胸が締め付けられる思いだったでしょう。

なぜ。なぜイエス様は死ななければならなかったのか、と。

様々な感情が溢れ、墓の前で、マリアは泣いていたのです。

【気づかないマリア】

イエス様の墓を見つめ、マリアは悲しみを覚え、泣き続けていました。

そんなマリアに語り掛ける声が聞こえたのです。

「婦人よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20:13)

彼女の前には、二人の天使が見えました。

二人の天使。それは、イエス様の復活を予感させる存在です。

しかし、マリアは気づかないのです。

イエス様の復活に気付くことができないのです。

その予感を感じる取ることができなかったのです。

弟子たちに報告したように、マリアは彼らに答えます。

「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 (ヨハネ20:13)

こう言いながら、後ろを振り返った時、そこに立っていたイエス様を見ても、マリアは、すぐ側にいるのがイエス様だと気付かないのです。

イエス様がよみがえり、そこに立っていることに気づかないのです。

イエス様を園丁だと思い込んで、彼女は、また墓の方を向いてしまうのです。

そこに、彼女が捜しているイエス様がいたのにも関わらず、

彼女は、墓の方に目を注いで、泣き続けるのです。

マリアは、悲しみに囚われていました。

すぐそこに、すぐそばに、希望があるのにも関わらず、

目の前にある出来事に心奪われてしまっていたのです。

このように、悲しみや嘆きは、私たちの目を希望から逸らさせるのです。

本来私たちが見つめるべき希望を諦めさせ、また時には気付かせないようにするのです。

【主イエスの語り掛け】

そんな悲しみに囚われていたマリアに対して、イエス様は一言、こう言ったのです。

「マリア」(20:16)

それはマリアの聞き慣れた声でした。

聞き慣れた呼び掛けでした。

これまで何度も、何度も、自分の名前を呼んでくださった方の声でした。

このたった一言で、マリアは目の前にいるのが誰なのかに気付いたのです。

目の前にいるのは、イエス様だと。

死んで復活した後も、イエス様は変わることなく、マリアに呼び掛けられたのです。

死は、イエス様とマリアの関係を変えることがなかったのです。

イエス様のこの語り掛けが、悲しみに囚われていたマリアに希望を与えたのです。

そして、復活の主イエスとの出会いを通して、マリアの目から涙は拭い去られ、彼女は、顔を上げることができたのです。

【嘆きではなく、希望の言葉を携える者になる】

もはや、彼女は「わたしの主が取り去られました。

どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 (ヨハネ20:13)

という嘆きの言葉を語る必要はありません。

嘆きの言葉の代わりに、新たな希望の言葉が彼女に与えられているのです。

彼女は、嘆きの言葉を携えて、人々の前に出て行く者ではなく、

希望の言葉を携えて出て行く者へと、変えられたのです。

彼女は、「わたしの主が取り去られました」(20:13)とはもう言いません。

彼女はこう言うのです。

「わたしは主を見ました」(ヨハネ20:18)

この喜びの言葉を、マリアは希望として携えて、弟子たちのもとへと向かったのです。

私は主を見ました。

イエス様が復活されたのをこの目で見ました、と。

【希望の言葉を携えて歩む】

イエス様の死の前に、何も為す術がなく、

ただ泣き続けるしかなかったマリアの前に、イエス様は現れました。

イエス様は復活したのです。

この事実は、私たちにとっての希望です。

悲しみや嘆きのただ中にある私たちに、神は語り掛け、希望を与えてくださるのです。

マリアの涙が拭い去られ、彼女の嘆きが希望へと変えられたように。

イエス様の復活を通して、私たちは確信することができます。

悲しみや希望、落胆は、私たちの永遠の運命ではない、と。

確かに私たちはこれからも、嘆くでしょう。悲しむでしょう。涙を流すでしょう。

しかし、神が私たちに語り掛けて、希望を与えてくださっているのです。

どんなに深い絶望の淵にあっても。

神は、私たちの名前を呼び、私たちに語り掛け、

私たちに希望を与え続けてくださるのです。

主イエスはよみがえられた、という希望です。

この希望の言葉を知っているから、私たちはこう確信することができるのです。

私たちが日々抱える嘆き、悲しみのただ中に、神は働く、と。

私たちが打ち勝つことのできない死に打ち勝ち、勝利された復活の主と、私たちは出会っているのですから。

この希望の言葉を携えて出て行きましょう。

悲しみや嘆きを覚える中に、主が確かに光を投げかけてくださるのですから。

復活の主が、私たちの涙を拭い去ってくださると信じて、歩んでいきましょう。

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