「神に養われて歩む旅」
説教題 「神に養われて歩む旅」
聖書 出エジプト記16:1−5、ヨハネによる福音書 21:1−14
説教者 稲葉基嗣牧師
【漁へ向かう弟子たち】
それは、イエス様が復活して、弟子たちの前に現れた後のことでした。
「わたしは漁に行く」(ヨハネ21:3)
シモン・ペトロは、一緒に居た他の弟子たちにこう言って、
彼らと共に湖の方へ漁に出かけて行きました。
彼らがいたティベリアス湖畔とは、ガリラヤ湖のことです。
ペトロは、イエス様の弟子になる前、ここで漁師として働いていました。
なぜ彼は以前していた仕事にまた戻ろうとしているのだろうか、と思うかもしれません。
しかし、これはとても自然なことでした。
ペトロは伝道者として召されましたが、
この時はまだ、聖霊を受ける前で、弟子たちが各地へと散らされていく前でした。
それに、私たち人間は、日々必要なものを得るために働く必要があります。
ですので、漁師として働いて生きていたペトロが、また漁をしようと思ったのは当然のことでした。
【漁へ行った結果】
ペトロは、イエス様の弟子になる以前は漁師として働いていたのですから、
自信をもって、この仕事に取り掛かったことでしょう。
しかし、夜明けまで粘っても、何も捕れなかったようです。
自分の取り掛かった物事に対して、何も成果が得られないとき、
私たちはひどく落胆し、疲れを覚えます。
なぜこんなことに手を出してしまったのかと、後悔さえ覚えます。
弟子たちは夜通し漁をしていたため、心も身体も疲れ切っていたことでしょう。
【主イエスの声に耳を澄ませば、あなたたちは見出すだろう】
そんな時、ふと目を上げると、岸の方に人影が見えるではありませんか。
朝もやがかかっていたからでしょうか。
彼らは岸辺に立っているのがイエス様だと気付きませんでした。
落胆し、疲れきっている弟子たちに向かって、イエス様は岸辺の方から叫んで言われました。
「子たちよ、何か食べる物があるか」(ヨハネ21:5)
イエス様は、弟子たちが何も捕れなかったことを知った上で、こう聞いているのです。
その上、彼らが「何も捕れなかった」と答えるのを予期しているかのような聞き方を、
イエス様はここでしています。
疲れが溜まり、眠気を我慢して舟に乗り続ける弟子たちの答えは、
イエス様の予想通り、「ありません」という答えでした。
それを聞くとすぐ、イエス様は、弟子たちに向かってこう言われたのです。
「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」(ヨハネ21:6)
このイエス様の言葉ですが、ギリシア語から日本語に直訳してみると、
少しニュアンスが違ってきます。
「舟の右側に網を投げなさい。そうすれば、あなたたちは見出すだろう。」(ヨハネ21:6、私訳)
「そうすれば、見出すだろう」とイエス様は言われました。
「そうすれば」、つまり、「舟の右側に網を投げれば」ということです。
しかし、漁師でもない人々に対して、イエス様は同じようには言わないでしょう。
この言葉を通して、イエス様は私たちに、こう語り掛けているのです。
「神の声を聞き、神の言葉に従って、あなたに与えられているものを用いなさい」と。
私たちに与えられているものとは、一体何でしょうか。
それは、様々です。
普段身につけているもの。お金。能力。地位。家族。人脈。
そして、この身体。
私たちは多くのものを、いや、すべてのものを神から与えられています。
このような私たちに、神は語りかけているのです。
神の言葉を聞き、あなたたちに与えられているすべてのものを用いなさい。
そうすれば、あなたたちは見出すだろう。
あなたたちが見出す必要のあるものを、見出すだろう、と。
【そして、主を見出す】
弟子たちはイエス様の言葉通りに、網を打ってみます。
6節を見てみましょう。
イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。(ヨハネ21:6−7)
彼らが見出したものとは、一体何だったのでしょうか。
直接的には、あまりにも多くの魚です。
しかし、彼らはこの経験を通して、それ以上のものを見出しました。
それは、この出来事が、かつてペトロが経験したことに似ていた、ということです。
ペトロがイエス様の弟子として召命されたとき、
これと似たようなことが起こったのです。
その出来事は、ルカによる福音書5章に記されています。
その時も、イエス様から言われた通りに網を下ろしてみると、大量の魚がとれたのです。
あの時と違ったのは、弟子たちがイエス様の言葉にすぐに従ったことでした。
ペトロから、彼とイエス様との出会いについて何度も聞かされていたからこそ、
弟子たちはこの言葉に素直に応じることができたのでしょう。
そして、このとき、一人の弟子が声を上げました。
「主だ」(21:7)
ペトロから聞かされていた話と酷似している目の前の状況、
そして、自分たちに呼び掛けられたあの声を通して、彼は確信したのです。
岸辺に立っているのは、愛するイエス様だ、と。
彼は、イエス様を見出したのです。
そして、彼を通して、舟に乗っているすべての弟子たちが、イエス様を見出したのです。
【ペトロの心にあったもの】
この言葉を聞くと、ペトロはすぐさま湖に飛び込み、泳いでイエス様のもとへ向かいます。
この時、ペトロの心にあったものは、過去に対する後悔でしょう。
イエス様が裁判にかけられ、処刑されようとしている時、
イエス様のことを「知らない」と否定してしまったこと。
イエス様を裏切ってしまったこと。
そして、イエス様に従いきれなかたことに対する後悔です。
「イエス様、もう一度、あなたに心から従いたい」という思いは、
復活されたイエス様との再会を果たしてから、常に彼の心にあったことでしょう。
しかし、なかなかそれを伝えるタイミングがなかったのです。
そんなペトロに対して、イエス様の方から先に働かれたのです。
ペトロの召命を思い起こす出来事を引き起こすことによって、
彼を再び主イエスの弟子として、召し出そうとしているのです。
既に、そこにはペトロに対するイエス様の愛と赦しがあったのです。
そして、それを一緒に経験した他の弟子たちに対しても、
主イエスは同じように働きかけているのです。
このイエス様の招きに応えて、ペトロは湖へと飛び込んだのです。
ここで用いられているギリシア語を見てみると、ペトロは「自分自身を湖に投げた」という言い方をしています。
このとき使っている、「投げる」という意味の単語は、
「舟の右側に網を打ちなさい」(ヨハネ21:6)とイエス様が言った言葉の中で、
「打ちなさい」と訳されている言葉に使われている単語と同じものが使われています。
ヨハネは意識して、同じ言葉を使っているのでしょう。
神の言葉に従って、自分自身に与えられているものを用いるだけでなく、
あなた自身を用いなさい、とヨハネは伝えようとしているのです。
イエス様に心から従いたい、と願っていたペトロが、
すべてをイエス様の前に差し出した瞬間でした。
【神が私たちを養われる】
弟子たちが岸辺に着くと、イエス様は弟子たちを食事の席へと招かれます。
その食事の席は、イエス様が用意されました。
食べ物も、一緒に食事する機会も、すべてイエス様が用意されていました。
そして、イエス様はパンと魚を弟子たちに与えたのです。
イエス様がすべてを備え、弟子たちを養われたのです。
イエス様に養われたのは、この時の弟子たちだけではありません。
イエス様はパンと魚を用いて、5000人もの人々を養いました。
そして、イエス・キリストの父なる神は、旧約聖書の時代、
エジプトを出て、荒野を彷徨うイスラエル人たちに、マナを与えました。
毎日、毎日、40年間、イスラエル人たちを養い続けました。
そして、今も変らわずに、神は私たちを養い続けています。
【御言葉を持って、神は私たちを養い、主の弟子として整える】
神が私たちを養ってくださる、ということは、
単に、毎日私たちの生活は神に守られている、ということだけを意味するのではありません。
神は、私たちを養うことを通して、私たちを神の民にしようとしているのです。
イエス様がペトロに働き掛けたように、私たちを真のキリストの弟子にしようとしているのです。
イスラエルが40年間の荒野の旅を通して、エジプトの奴隷から真の神の民に変えられたように。
私たちは、神の養いを通して、
少しずつ、少しずつ、神に喜ばれる姿へと変えられていくのです。
神が私たちを養うために用いるのは、神の言葉です。
神は、私たちを御言葉によって養い、真の神の民として、キリストの弟子として、
私たちを日々整えてくださっているのです。
神の民とは、キリストの弟子とは、御言葉をただ聞くだけの者ではありません。
神の民とは、ただ神に養われているだけではなく、神の言葉に心から従う者なのです。
ですから、イエス様は言われます。
「舟の右側に網を投げなさい。そうすれば、あなたたちは見出すだろう。」(ヨハネ21:6、私訳)
あなたに与えられているものを用いなさい、そうすれば見出すだろう、と主イエスは言われるのです。
しかし、何を見出すことができるかは、わかりません。
それでも、良いものを神が与えてくださる、という希望を私たちはもっています。
与えられているものに希望を置くのではなく、神にこそ希望を置くのです。
ですから、私たちは神から与えられて、今手元にあるものに執着することなく、
それを豊かに用いる自由を与えられているのです。
【互いの存在を通して、神は私たちを養われる 】
では、私たちは、与えられているものをどのように用いるべきなのでしょうか。
私たちは、神から与えられているものを、自分のためだけに使うのではなく、
隣人のため、そして、神のために用いるように召されています。[3]
欠けを補い合い、助け合いながら生きるのが、私たちの生き方です。
私たち自身を用いて、神はひとりひとりを養おうとしているのです。
この世は、お互いに助け合いながら生きるよりは、
お互いに競い合い、利用し合い、最終的にはどうにかして相手を打ち負かそうという競争原理に従って動かされています。
自分に与えられているものでは飽きたらず、人から様々なものを奪おうとしてきます。
しかし、神に与えられているすべてのものを、互いに奪い合って生きることは間違っていると、私たちは知っています。
ですから、私たちはこの世の論理に従って生きるのではなく、
神に与えられているものを喜んで分かち合って生きていこうではありませんか。
それこそ、天の御国を目指して歩む私たちの生き方なのです。
天の御国を目指すこの旅の歩みを、私たちは互いに支え合い、お互いの足りない部分を補い合いながら、歩んで行きましょう。
そして、私たちはこのような生き方を通して、私たちを日々養ってくださっている神の愛を、世に告げ知らせましょう。
私たちが互いに支え合うことを通して、神の愛は豊かに示されていくのですから。