「あなたは、わたしに従いなさい」
説教題 「あなたは、わたしに従いなさい」
聖書 エレミヤ13:1−11、ヨハネによる福音書21:20−25
説教者 稲葉基嗣牧師
【イエスの愛と赦しが溢れる物語】
ヨハネによる福音書の21章は、イエス様の愛と赦しが、
その背後に豊かに溢れている箇所です。
イエス様はペトロを真剣に見つめ、彼に語り掛けました。
私を愛しているか。(ヨハネ21:15)
そう問い掛け、イエス様はペトロの内にある愛を確認しました。
また、「私を愛しているか」と、三度問い掛けることによって、
ペトロがかつてイエス様を裏切り、三度もイエス様を否定したことを、ペトロに思い出させました。
しかし、イエス様は彼を反省させるために、このように語ったのではありません。
イエス様はペトロを赦し、ペトロを愛していたから、
三度も「私を愛しているか」と語りかけたのです。
ペトロの返事を聞いた後、イエス様は三度、似たような言葉を語ります。
「私の羊を飼いなさい」と。
そうペトロに告げることによって、イエス様は再び、彼を伝道者として任命したのです。
イエス様の愛と赦しがあったからこそ、ペトロは伝道者として再び立ち上がることができたのです。
しかし、イエス様の愛と赦しの宣言で、この物語は終わりませんでした。
「はっきり言っておく」と、強い言い方をして、
イエス様はペトロに語り続けたのです。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネ21:18)
【「アーメン、アーメン」と語り掛ける主イエス】
「はっきり言っておく」、とイエス様が語ったこの言葉。
ギリシア語から日本語に直訳してみると、かなり印象が変わります。
アーメン、アーメン。私はあなたに言う。(ヨハネ21:18、私訳)
ヨハネによる福音書では、20回以上も使われている表現です。
イエス様が、重要なことを、これから言おうとしていることが伝わってきます。
この「アーメン」という言葉。
祈りの最後に使う言葉ですので、
私たちにとっても、とても親しみのある言葉です。
その意味は、「確かにそうである」、「確かにそうであれ」です。
聖書では、礼拝、賛美、手紙、祈り、信仰告白などに、この言葉は用いられます。
そして、神の約束が成就するという揺るぎない確信と、
それを受け入れるという信仰の表れとして、
「アーメン」という言葉は、今日まで用いられてきました。
そのような言葉を、イエス様は二度も重ねて使い、ペトロに語り掛けたのです。
アーメン、アーメン。私はあなたに言う。(ヨハネ21:18、私訳)
イエス様は私たちが慣れ親しんだ、この「アーメン」という言葉を、
賛美や祈り、信仰告白などとは異なった用い方をしています。
私たちは通常、祈りの最後に「アーメン」と言って、神への信仰を告白します。
「アーメン、あなたの約束こそ真実です」と。
または、誰かの言葉や祈りに対して、その応答として「アーメン」と言います。
しかし、イエス様はこれから自分が語る言葉の前に、「アーメン」と言っているのです。
そうすることによって、イエス様は、自分がこれから語る言葉に対して「アーメン」と言っているのです。
神の言葉であるイエス様が語る言葉は、真実な言葉です。
ですから、イエス様は、父なる神から与えられた言葉を語るその前に、「アーメン」と言ったのです。
それは、イエス様がこれから語る言葉に、特に注目する必要があることを示しています。
イエス様の愛と、赦しを受け取り、伝道者として再び立ち上がろうとしているペトロに、特に伝えたい言葉がイエス様にはあったのです。
【他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる】
「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」と言った後、
イエス様はペトロに、このように語り掛けたのです。
「……あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネ21:18)
「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた」とイエス様はペトロに言うのです。
あなたはこれまで、自分の行きたい場所へ行き、好きなように生きていた。
自分のすべきことを、自分で決めることができた、と。
「しかし」、とイエス様は続けます。
「しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」、と。
イエス様がペトロに伝えたこの言葉は、私たちと無関係な言葉ではありません。
事実、私たちも、自分の行きたい場所へ行き、好きなように生きてきました。
自分のすべきことを、自分で決めることができましたし、
そのように生きることを私たちは好みます。
そのような私たちに対しても、「しかし」、とイエス様は語られるのです。
「しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」、と。
【神が、あなたの帯を締める】
ある時、ふと気付くときがあります。
自分の内にある様々な「制約」に。
自分の出来ることがある一方で、出来ないことがあることに。
足を運ぶことができる場所がある一方で、行くことのできない場所があることに。
大切な何かに時間を割く一方で、他のものに時間を割くことができないことに。
ある人は、運命だと言います。
ある人は、それを自分の限界だと言います。
しかし、イエス様はそのような私たちの持つ「制約」を、運命や限界とは考えませんでした。
イエス様はこう言いました。
「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」、と。
「他の人」とは、一体誰のことでしょうか。
「他の人」。
それは、文字通り「私以外の誰か」です。
時に、誰かの手に引かれて、私たちは行きたくないところへ連れて行かれることがあります。
しかし、その背後にある事実に、私たちは目を向けるべきなのでしょう。
そう、私たちに日々手を差し伸べて、
私たちの日々の歩みを導かれるのは、神である、という事実に。
その意味で「他の人」とは、神のことです。
神が、私たちの帯を締め、
神が、神の望む場所へと私たちを連れて行くのです。
神は、私たち一人一人の内に計画をもっています。
「このことのために、私はあなたを用いたい」と言って、
神は私たちの腰に帯を締め、私たちの手を引いて、
神が望む場所へと私たちを連れて行こうとするのです。
それは実に様々な方法を用いてなされます。
あらゆる人々、あらゆる機会を用いて、
神は私たちを、神が望んだ場所へと連れて行くのです。
【平和の計画を立てて、神は私たちを導く】
しかし、神が望んだ場所が、私たちの望みと一致するとは限りません。
イエス様は言われます。
「行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21:18)と。
しかし、たとえ連れて行かれた先が、私たち自身の望まない場所だったとしても、
この場所に導かれることこそが、神の計画であると、
私たちは神の言葉を通して、確信することができるのです。
預言者エレミヤを通して、神はこのように語られました。
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。(エレミヤ29:11)
神は「災いの計画」を立てて、私たちを導かれる方ではありません。
「将来と希望を与える」「平和の計画」を立てて、神は私たちを導かれる方です。
そのような方である神が、聖書の言葉を通して、私たちに語り掛けておられるのです。
神の言葉によって、神は私たちの腰に帯を締められるのです。
災いの計画ではなく、平和の計画を神は立てておられます。
将来と希望を与える神の計画に信頼して、
私たちは、神に帯を締めてもらいましょう。
そして、神にこの手を引いてもらいましょう。
神は、私たちを、神が望む場所へと連れて行きたいのですから。
「あなたを、この場所で用いたい」という願いが、神の内にあるのですから。
【主イエスに従う動機】
イエス様はこのような思いを抱きながら、ペトロに言うのです。
「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:19)
神によって導かれる場所で、あなたは「わたしに従いなさい」、と。
しかし、ペトロはこう答えたのです。
「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハネ21:21)
彼は、他の弟子がどのように従い、どのように用いられるのかが気になってしまったのです。
そんなペトロに対して、イエス様はこう答えました。
「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:22)
神に呼ばれた時、人と自分を比べてしまう自分がいます。
「わたしに従いなさい」と招かれているのに、他の人々がどのように応えるのかが気にしてしまうときがあるのです。
あの人が従っているから、私も従う。
あの人が従わないから、私も従わない、と。
これが、私たちが神に従って生きることの動機なのでしょうか。
いいえ、違います。
神から与えられている愛と赦しが、私たちの従う動機となるべきです。
だからイエス様は「私に従いなさい」ペトロに言う前に、
「私を愛しているか」と問い掛け、ペトロの内にある愛を確認したのです。
ペトロに愛と赦しを伝えたのです。
神に赦され、神に愛されている。
この事実こそが、私たちが神に従う動機なのです。
【主イエスに従う生き方とは?】
「あなたを用いたい」と、神は私たち一人一人に語り掛け、
私たちを招いておられます。
神は、神に愛され、赦しを与えられている私たちを用いたいのです。
そして、神は、神が望む場所へ私たちを導かれます。
導かれた先々で、私たちは問われるのです。
「この場所で、主イエスに従う歩みができているのか」と。
主イエスに従う生き方とは、一体どのような生き方なのでしょうか。
それは、神の言葉を聞いて、喜んでそれを受け取る生き方です。
そして、生活の全ての領域に福音の響きを響かせる生き方です。
ただ心で信じるだけでは、従っているとはいえないのです。
あらゆる場所で、私たち自身の存在を通して、神の愛を伝える生き方です。
それこそが、神が私たちに求めておられることです。
イエス様は十字架に架かられる前、最後の晩餐の席で、弟子たちに新しい戒めを与えられました。
わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(ヨハネ15:12)
この福音書記者ヨハネは、
「互いに愛し合うことこそが、主イエスに従うことだ」と確信して、
この福音書を書いたのだと思います。
イエス様が私たちを愛してくださったように、互いに愛し合う。
それは、愛する対象を問いません。
愛を示す場所や、時を問いません。
私たちは神に帯を締められ、連れて行かれたその先々で問われるのです。
イエス様が私を愛してくださったように、私は目の前の人を愛することができているのだろうか。
イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちは互いに愛し合うことができているのだろうか、と。
愛することの出来ない理由は、それぞれの内に、実に様々な形で存在します。
しかし、私たちはいつも忘れないようにしましょう。
それでも、神は私たちに赦しを与え、
愛を示し続けてくださっているということを。
神はかつてそうであったように、
今日も、そしてこれからも、私たちに語り掛けられます。
あなたは、私に従いなさい。(ヨハネ21:22)
互いに愛し合うこと。
それこそが、主イエスに従う者たちの生き方です。
私たちは、喜びをもって、神の招きに応え続けていきましょう。