「神のわざによって、ひとつとされる」
説教題 「神のわざによって、ひとつとされる」
聖書 創世記11:1−9、使徒言行録2:1−13
説教者 稲葉基嗣牧師
【「聞かない」という問題】
言葉を私たちは日常的に用いています。
この口で言葉を語り、語られた言葉を、この耳で聞く。
この手で文字を書き、記された言葉をこの目で読む。
それらのことが、絶えず繰り返されています。
言葉は、人とのコミュニケーション手段として用いられます。
それは、書かれた言葉であっても同じです。
書かれた文字を読むことによって、私たちはそれを書いた人との交流が始まるのです。
しかしその一方で、私たちはこれらの言葉を「聞かない」という選択肢をもっています。
自分に必要のない情報や、自分に都合の悪い言葉は、
読まない、聞かない、といった具合に。
【「バベルの塔」が問題としていること】
「聞かない」ということによって、一体何が起こるのでしょうか。
今日、私たちに与えられた創世記11章は、
人々が互いの言葉を聞かなくなったことによって引き起こされた出来事が、書き記されています。
11:1には、このように記されています。
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。(創世記11:1)
当時、世界中で同じ言葉が話されていたようです。
様々な言語がなく、人々は自分の言葉で、お互いの思いを伝え合うことができました。
しかし、お互いに話していることがわかり、思いを伝え合うことができれば、
互いに争うこともなく、仲良くやっていけるわけではありません。
むしろ、お互いの言葉が通じるからこそ、生じる問題もあります。
ですから、人々はこのように言い始めたのです。
「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)
人々は「散らされること」を恐れ始めたのです。
何とかして、ひとつになろうと考え始めたのです。
ひとつになるために、彼らが取った方法とは、高い塔のある町を建てることでした。
「天まで届く塔」とは、権力の象徴です。
強い権力を示すことによって、その権力の下に人々を束ねようと考えたのです。
しかし、このような形で人々がひとつになることは、神が望まれたことだったのでしょうか。
創世記1章を見てみると、神はこのような祝福の言葉を被造物全体に与えています。
産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。(創世記1:28)
地に満ちること。
これが神が造られたすべてのものに対して望んだことでした。
もちろん、人間に対しても同じように望まれました。
人間が地上に増え広がっていくことは、神の祝福であり、神の望むことなのです。
しかし、人々は地上に散らされることを恐れたのです。
人々は神の思いに反抗して、天まで届く高い塔のある町を建てて、
ひとつの場所に集うことを望んだのでした。
【言葉の混乱】
人々が建てようとしたのは、天まで届く高い塔でした。
神は、塔のあるこの町を見たとき、こう言われました。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:6−7)
神の思いに反抗する人々に対して、神がとった手段は、言葉を混乱させることでした。
お互いの言葉を聞き分けられないようにしたのです。
その結果、彼らは全地に散り、塔のある町の建設は中止されたと、記されています。
言葉が通じなくなったから、人々は散っていった、と聖書は語ります。
【「聞かない」群れ】
しかし、言葉が通じなくなったことが、人々が散っていった原因だったのでしょうか。
そもそも言葉が通じなくなったら、人々は散って行ってしまうのでしょうか。
もちろん、人々が散っていく原因をつくったのは、神でした。
それと共に大きな原因となったのは、人々がお互いの言葉を聞かなくなったことでした。
7節で「お互いの言葉が聞き分けられぬように」と訳されている言葉は、
「お互いに言葉を聞かないように」とも訳すことができます。
確かに、人々の言葉は混乱し、人々はお互いの言葉を理解できなくなりました。
しかし、相手に自分の思いを伝える手段は、言葉以外にもあります。
身振り手振りで、何とかして自分の思いを伝えることだってできます。
地面に絵を描いて、伝えることだってできたでしょう。
しかし、それにも関わらず、人々は散っていったのです。
時間を掛ければ、コミュニケーションを取ることができたのにも関わらず、
彼らは、お互いの言葉を聴くことを諦めて、散っていったのです。
お互いの言葉を聞かないこと。
そして、目の前にいる相手を理解するのを諦めたこと。
これがバベルの塔の物語で一番問題になっていることなのです。
そしてそれは、元を正せば、神の言葉を聞かないことから起こった出来事です。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28)という、
祝福の言葉を無視して、自分の好きなように生きた結果でした。
神の言葉よりも、自分の思い、自分の言葉を大切にした結果です。
【「聞かない」ことによって壁をつくり、人格を否定する】
この「互いの言葉を聞かない」という問題は、バベルの塔の時代だけでなく、
いつの時代にも起こり得ることです。
この問題に、私たちも日々苦しめられています。
日々、私たちの周囲では様々な言葉が飛び交っています。
様々な言葉が、私たちに向かって語られています。
しかし、すべての人が自分に友好的に接してくるわけではありません。
愛や優しさに溢れる言葉を掛けられ、励ましを受けることもあれば、
反対に、心ない一言によって傷付くこともあります。
そのような言葉を語る人を目の前にする時、私たちは正直、耳を閉ざしたくなります。
目の前にいる相手の言葉を、「聞かない」という選択をとりたくなります。
また私たち自身も、目の前にいる相手に、耳を閉ざされることもあります。
それは、私たちの語る言葉が、相手の考えや好みに沿わない言葉であったり、
悲しいことに、私達自身が、心ない一言を語ることが原因であったりします。
こういったことが、日々繰り返されています。
お互いの言葉を「聞かない」という選択を取り、お互いの間に壁を作り続けるのです。
一度壁を作ってしまうと、なかなかその壁を乗り越えることができないのです。
しかし、互いの言葉を聞かないことは、壁を作り出すだけではなく、
もっと深刻な問題を私たちにもたらします。
聞かないこと。
それは、私たちに声を掛けてくる相手の人格を否定することです。
相手の言葉を聞かないことによって、私たちは目の前にいる人の人格を否定しているのです。
「聞かない」ことは、相手の存在をむなしくする宣言なのです。
「聞かない」ということによって、私たちは目の前にいる相手を否定しているのです。
目の前にいる友人を、家族を、そして、神を。
【ペンテコステの日、ひとつの場所に集められた】
バベルの塔の事件以来、いや、最初に造られた人間たちが罪を犯して以来、
私たち人間は、お互いに聞かないという問題に苦しみ続けています。
しかし、神は私たちを見捨てません。
バベルの塔の物語から、多くの時間が流れた時、この問題に対する希望の光りが差し込んできたのです。
それは、ペンテコステの日に、突然、激しい風が吹くことによって起こりました。
この出来事は、使徒言行録の2章に記されています。
それは次のような出来事でした。
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:1−4)
弟子たちがひとつになって集まっていた時、聖霊が与えられたのです。
聖霊、それはイエス様が私たちに与えられると約束されていた、私たちの助け主です。
聖霊が弟子たちに降った時、彼らは他の国の言葉を話せるようになったのです。
そして、彼らは、「神の偉大なわざ」(使徒2:11)を他の国々の言葉によって話し始めたのです。
それは、全地に散って行った人々をひとつの場所に集めるためになされた「神の偉大なわざ」でした。
この時の出来事について、使徒言行録2章5−6節でこのように記されています。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。(使徒言行録2:5−6)
この時代、エルサレムにすべてのユダヤ人がいたわけではありませんでした。
彼らは、各地に散っていたのです。
五旬祭の日に合わせて、彼らはエルサレムに集まっていたのですが、
聖霊が降った時、各地に散って行った者たちが同じ場所に集められたのです。
神が、彼らをひとつの場所に集めたのです。
【神のわざによって、ひとつとされる】
「バベルの塔」と「ペンテコステ」。
この二つの出来事を通して、私たちは知ることができます。
「散らすのも、ひとつにするのも、神のわざである」と。
教会は、それを毎週のように繰り返しています。
日曜日毎に、私たちはひとつの場所に集められ、ひとつの共同体として、神を賛美しています。
そして、礼拝が終わる時、私たちはそれぞれの場所へと散って行きます。
しかし、「聞かない」という問題がある以上、教会が「ひとつである」こと、一致することは、とても難しいことのように感じます。
「聞かない」という問題によって、私たちの間に、壁が生じるのですから。
その上、私たちは、何もかも違う存在です。
置かれている環境、住んでいる場所、今日まで経験してきたこと、家族構成、年齢、
興味を覚えること、好きなこと、嫌いなこと、など、何もかも違います。
そのような何もかも違う私たちが、
どうすれば、ひとつとなることができるというのでしょうか。
教会が今日まで抱き続けてきた確信は、こうです。
「神がひとつに結び合わせなければ、私たちはひとつとなることはできない」。
「神のわざによって、ひとつとされる」、これが私たちの確信なのです。
【共に祈る共同体】
では、「神のわざによって、ひとつとされる」のだから、私たちは何もすることはないのでしょうか。
そうではありません。
「神のわざによって、ひとつとされる」ことを、共に祈り求めるべきなのです。
2:1には、このように記されています。
……一同が一つになって集まっていると、(使徒言行録2:1)
ペンテコステの日、弟子たちは「一つになって集まって」いたのです。
彼らは、一緒に祈っていたのでしょう。
聖霊が与えられる日を待ち望みなさい(使徒1:4参照)という、イエス様の言葉を心に留めて、
共に神の方を向いて、祈り続けたのです。
聖霊は、神と私たちとを結びつける方です。
そして、神を信じる者同士を結びつける方です。
聖霊によって、私たちはひとつとされるのです。
ですから、彼らは聖霊を祈り求めたのです。
そして、弟子たちが共に祈り求めた末に、
彼らの群れの、そのただ中に、突然、激しい風が吹いたのです。
そう、聖霊が与えられたのです。
【聖霊の風は、荒々しく吹く】
この聖霊は、私たちの内に、既に与えられています。
ですから、私は信じます。
かつて、ペンテコステの日に起こったように、今も、聖霊の風が吹き続けることを。
私たちが共にこの場所に集い祈る時に、神が働かれるのを。
それは、突然やってくる、激しい風です。
ここで「激しい」と訳されている言葉は「暴力的な」という意味の言葉です。
神は決して、さわやかな優しい風を私たちに吹き付けるわけではないのです。
神のわざは、ある意味、時に暴力的です。
私たちの身勝手な主張を押しのけ、「神の言葉を聞け」と、神の霊は吹き荒れるからです。
私たちの内には、そのような荒々しい風が吹かないと、
私たちの自らのあり方を変えない、罪深い性質があるからです。
悲しいことに、キリストが十字架によって打ち破った隔ての壁を、
私たちはいとも簡単に、新しく作り直してしまいます。
ですから、私たちは神に願いましょう。
このわたしの内に、教会の内に、そしてこの世界に、聖霊の荒々しい風が吹くことを。
私たちをキリストの弟子へと、新たに造り変える風が吹き続けることを。
私たちが何度も、何度も作り続ける壁を、この風が打ち壊し続けることを。
そして、私たちの教会を互いの言葉を聞き合う、人格的な共同体としてくださることを。
神が、聖霊によって、私たちをひとつにしてくださるのです。
それは神の起こす「偉大なわざ」です。