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「あなたは誰?」

説教題 「あなたは誰?」

聖書 イザヤ書63:15−19、マルコによる福音書1:9−11

説教者 稲葉基嗣牧師

【あなたは誰なのか?】

「あなたは誰ですか」。

私たちは初めて出会う人に対して、このような問いを抱きます。

目の前にいるこの人は、どのような名前なのだろうか。

何をしている人なのか。どのような性格なのか。

何が好きなのか。趣味は何なのか。出身地は何処なのか、

などといったように。

このように、私たちは初めて出会う人に対して、

たとえ言葉にしなくても、「あなたは誰ですか」という問いを抱くのです。

【では、イエスとは誰なのか?】

今日私達に与えられたテキストは、

マルコによる福音書でイエス様が初めて登場する場面です。

マルコによる福音書を最初から読む時、

読者である私達とイエス様との最初の出会いが、ここにあるのです。

私たちは問い掛けます。

「イエスとは誰なのか」と。

【イエスはガリラヤのナザレから来た】

この問い掛けに対して、マルコはイエス様の家族や、

イエス様が受けた特別な教育などについては全く触れません。

彼がイエス様について語る唯一のことは、

彼が「ガリラヤのナザレから来」(1:9)たということだけでした。

イエス様がガリラヤのナザレから来たということは、

当時の人々にとっては何も特別なことではありませんでした。

寧ろ、イエス様がガリラヤのナザレから来たということを知って、

彼には何も期待できないと人々は思ったことでしょう。

というのは、「ナザレ」という地名は旧約聖書では一度も登場しない小さな村だったからです。

ヨハネによる福音書で、当時の人々は「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と言っています。

預言者が出てくるという預言さえないナザレから、

良い知らせが来るはずはないのです。

ですから、彼らは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と語ったのです。

「ガリラヤのナザレから来」たイエスという男に対して、

この福音書を読んだ当時の読者は、これっぽっちも期待することはありませんでした。

【天が裂ける時】

このように、人々からまったく期待されていないイエス様は、

ヨルダン川でバプテスマを受けました。

しかし、彼が水から上がったその時、イエス様が誰なのかが明らかになったのです。

マルコはその様子をこのように書いています。

水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ1:10―11)

イエス様が水から上がるとすぐに、天が裂けたというのです。

天とは、当時の人々の世界理解では、

人間の側からは何をしても行くことのできない神の領域でした。

人間の力ではどうしても開くことのできない天がこの時、裂けたのです。

それは、神が人と交わりを持とうとしているということを意味しました。

かつて旧約聖書の時代、イスラエルの人々は祈りました。

「どうかあなたが天を裂いてくだられるように」(イザヤ64:1)

しかし、この祈りは長い間実現されませんでした。

このイスラエルの祈りに対する神の答えが、この時に与えられたのです。

イエス様が水から上がるとすぐに、天が裂けたのです。

この出来事を通して、長く開かれることのなかった天が、突然開かれたのです。

「あなたと交わりを持ちたいんだ」と、神はこの福音書を読むすべての人々に語り掛けているのです。

それは、イエス様のバプテスマを通して、明らかになったのです。

【天からの声〜「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」】

マルコは、天が裂けたと描写するとすぐに、私たちの目を天からイエス様の方へと移します。

天から霊がイエス様のもとに降り、彼に対して天からの声が聞こえてきたのです。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)

天からの声、それはイエス様に対する神の声でした。

神が「イエスとは誰か」という問いに答えるのです。

イエス・キリスト、彼は「わたしの愛する子」であり、

「わたしの心に適う者」なのだ、と。

人々からはまったく期待されていなかった「ガリラヤのナザレから来」たイエス様が、

神の声によって何者なのかが明らかになったのです。

この神の言葉は、イエス様について2つのことを語っています。

ひとつは彼が神の愛する子であるということです。

イエス様は神が愛して止まない独り子です。

その愛する子を、神はこの世界に遣わされたのです。

そして、天からの声は、イエス様が神の「心に適う者」であると宣言しました。

このことは、神が愛する子であるイエス様をこの世界に遣わされた理由を説明しています。

神の御心、それは天が裂けた時に明らかになりました。

神が人間と交わりを持つ、それが神の御心、神の心からの願いでした。

この神の御心を実現するために、イエス様はこの世に来られたのです。

【神の御心を実現するため、イエスがしたこと】

では、神の御心を実現するため、イエス様がしたこととは何だったのでしょうか。

病人を癒すことでしょうか。

良いことをすることでしょうか。

悪霊を追い出すことでしょうか。

もちろん、それらすべて、神の御心のうちになされた出来事です。

しかし、それらによっては、神の御心を完全に実現することはできなかったのです。

イエス様が神の御心を実現するために、神と人との交わりを切り開くためにしたこと。

それは十字架に架かって死ぬことでした。

すべての人々の罪を背負って、十字架に架かる。

これが、神と人との交わりを切り開くための、唯一の道だったのです。

人間の罪によって断たれていた、神と人との交わりを回復するための、唯一の道だったのです。

神の御心とは、この目的のためにイエス様が苦しみを受けることだったのです。

イエス様は神の御心を実現するため、神の愛する子であるのにも関わらず、

十字架の死へと向かって歩んだのです。

【イエスのバプテスマによって明らかになったこと】

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)という言葉を通して、

私たちはイエス様がどのような方なのかを知ることができます。

しかし、イエス様は、この言葉を私たちが聞くためにバプテスマを受けたのでしょうか。

そうだとしても、ひとつの疑問が残ります。

イエスは罪がないのにも関わらず、なぜ罪の悔い改めのバプテスマを受けたのでしょうか。

イエス様に罪がなければ、悔い改める必要などないからです。

罪がないのにも関わらず、イエス様は罪の悔い改めのバプテスマを受けることを選びました。

それは、罪の力に支配され、罪の奴隷となっている私たち人間の側にイエス様が立つためでした。

イエス様は最終的に、十字架の死によって私たちのすべての罪を背負って死なれます。

罪の奴隷となっている私たちを罪の支配から解放し、神の子どもとするためにです。

このイエス様が受けたバプテスマは、私達に対するイエス様の宣言なのです。

イエス様はこのバプテスマを通して、

「あなたのその罪を担って、わたしは十字架への道を歩む」と言っているのです。

まさに、このバプテスマは、十字架に向かう道への最初の一歩だったのです。

その意味で、イエス様のバプテスマを通して、

私たちはイエス様が誰なのか、ということを知るのです。

【イエス・キリストを信じるあなたは誰なのか?】

バプテスマを通して、イエス様が誰なのかが私たちに明らかになりましたが、

バプテスマの役割はそれだけではありません。

バプテスマは、私たちに「あなたは誰なのかを思い出せ」と語り掛けてくるのです。

パウロはガラテヤの信徒への手紙で、バプテスマについてこのように書いています。

洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです(ガラテヤ3:27)

パウロによると、私たちはキリストを着ているのです。

罪の支配にあるとき、私たちは罪にまみれた古い生き方、古い考え方を衣として着ていました。

しかし、私たちの罪はイエス様の十字架の死によって赦されました。

だから私たちはその衣を脱ぎ捨てることができるのです。

罪にまみれた古い衣を脱ぎ捨て、私たちは今やキリストを新しい衣として着ているんだ、とパウロは語ります。

キリストを着る、それは復活の新しい生命を受けているということです。

かつての罪にまみれた生き方をするのではなく、

キリストにある新しい生命に生きるように私たちは招かれているのです。

そして、キリストを着ている私たちは、神からこのように宣言されています。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マルコ1:11)

バプテスマを受けてキリストに結ばれている私たちは、神の愛する子、

神の御心を携えて生きる者として生きるように招かれているのです。

どんな時にも、どんな場所においても、

私たちはキリストを着て、神に愛されている子として生きるのです。

それがキリストを着た新しい生命に溢れる生き方です。

それは、キリストが切り開いてくださった神との交わりに生きる生き方です。

そして、それはキリストが私たちを愛してくださったように、人を愛する生き方です。

何処にいようとも、神は私たちに語りかけてきます。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」だと。

そして、どんな時も、神は私たちに語りかけてきます。

「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」だと。

神に愛されている者として、

私たちは神の御心を求めて生きていこうではありませんか。

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