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「神の国は近づいた!」

説教題 「神の国は近づいた!」

聖書 ヨナ書3:1−10、マルコによる福音書1:14−15

説教者 稲葉基嗣牧師

【神の国は私たちのもとに限りなく近づいた!】

マルコによる福音書の中で、イエス様が語った最初の言葉が、今日開いた箇所に記されています。

それはこのようなものでした。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)

神の国は近づいた。

このことは、イエス様の行った宣教の強調点のひとつでした。

神の国がまさに出現しようとしている、ということをイエス様は宣言されたのです。

イエス様はここで、神の国は「近づいた」と言っています。

それは、神の国は、まだ私たちのもとに来ていないが、

すぐそこに、すぐ近くに来ている、ということを意味します。

「神の国の到来」について、聖書はふたつの視点をもっています。

ひとつは、「将来、神の国はやってくる」というものです。

それは「未だ」神の国は来ていないが、必ず、完全な形でやってくるという、将来に対する希望です。

そして、もうひとつは「既に、神の国は来ている」というものです。

完全な形ではないが、イエス様が来られたことによって、

神の国は既に私たちに与えられているというものです。

つまり、神の国は既に私たちのもとにやって来ているが、

それと共に、将来、完全な形で与えられる、という見方を聖書はしているのです。

イエス様の語った言葉は、どちらの側面も持っている言葉のように感じます。

神の国は近づいた。

神の国は、私たちのもとに既にやって来ていますが、

それが完全な形で与えられる将来を、私たちは待ち望んでいます。

その意味で、神の国は、私たちのもとに限りなく近づいているのです。

【「神の支配」の到来】

では、「神の国が近づいた」とは、一体どのようなことを意味しているのでしょうか。

ここで「国」と訳されている言葉は、「王の支配」という意味をもつ言葉です。

それは、王が支配する地域を指す言葉ではありません。

王が支配する行為そのものを指す言葉として、「国」という言葉がここでは使われています。

つまり、イエス様が宣言した「神の国が近づいた」という言葉は、このように言い換えることができます。

「私たちの王である神の支配が近づいた」。

この言葉は、支配者たちにとって、とても破壊的な言葉でした。

自分の支配している領域を、神が支配するというのですから。

キリスト者として生きることは、すべての支配者の支配を拒否し、

「私の主、私の王は、キリストである」と告白することなのです。

この問題は、今を生きる私たちにとっても、とても重要な問題です。

私たちは常に問われています。

「私の王とは、私の主人とは一体誰なのか」と。

そして、「あなたは誰の支配を受け入れるのか」と。

多くの人々にとって、自分の主人とは、自分以外の何者でもありません。

自分の主人は自分です。

しかし、そう言いながら、他人の言葉に踊らされる自分の姿。

欲に目がくらんで生きる自分の姿。

口では「主よ、主よ」と言いながら、神の支配など全く気にも留めない自分の姿。

そのような私たちがいます。

そのような私たちに向かって、イエス様は語り掛けるのです。

「神の国は近づいた」、「神の支配は近づいた」と。

イエス様はこの言葉を通して、私たちに問いかけてくるのです。

「あなたは、生活の全ての領域に、神の支配を受け入れているのか」と。

自分が支配していることが、すべて神の支配の下に置かれる時、

私たちの考えは根底から覆されます。

神の支配が、私たちの全存在、全生涯に及ぶのですから。

神の国は、愛と憐れみ、正義が実現されるところです。

ですから、神の支配が私たちの全存在に及ぶということは、

神の愛、憐れみ、正義が、私たちの全存在に行き届くことを意味しています。

私たちの内に、神の愛、憐れみ、正義は一体どれだけ溢れているのでしょうか。

【望まぬところに、神の国は到来した】

ここでひとつ注目したいことがあります。

それは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉を、

イエス様は、「ガリラヤへ行」って伝えたということです(マルコ1:14)。

イエス様が生きた時代のユダヤ人たちは、

当時ローマによって支配されていたエルサレムにこそ、神の支配がやってくるのを望んでいました。

エルサレムこそ、神の国となるべきだ、と。

しかし、イエス様が現れたのは、ガリラヤでした。

人々が望んでも居ない場所に、イエス様は現れて、「神の国は近づいた」と語ったのです。

このことは、「私たちが望まない場所に、神は働かれる」ということを意味しています。

「神様、ここだけはそっとしておいてくれ」という領域を、誰もがもっていることでしょう。

しかし、神の支配が私たちの全生涯、全存在に及ぶとき、

私たちが望まない場所にも、いえ、私たちが望まない場所にこそ、神の支配は及ぶのです。

「神の支配が近づいた」という、イエス様の言葉は、実に破壊的な言葉なのです。

【歴史の主である神が定める「時」】

では、神の国はいつ訪れるのでしょうか。

イエス様は「神の国は近づいた」と語った時、「時は満ちた」と叫びました。

そう、時が満ちた時、神の国は訪れるのです。

「時が満ちた時」とは、神の定める決定的な時が訪れた時のことです。

私たちが「この日に来てください」とお願いして、神の国が予定通りに到来するのではありません。

神の時は、私たちにとって、突然訪れる時です。

また、それは遅くもあり、早すぎたりもします。

しかし、それにもかかわらず、神にとって絶妙な時なのです。

まさにこの瞬間こそが、時であるという時に、神の定めた時は訪れるのです。

私たちは自分の都合で、すべての物事を考えます。

自分の都合で、すべての時が訪れ、すべての物事が思い通りに進むことを願います。

そうなったら、どれほど気持ちが良いことでしょうか。

しかし、私たちは知るべきです。

時の支配者は誰なのか、ということを。

歴史の支配者は誰なのか。

この世界の支配者は一体誰なのか、ということを。

そう、それは私たちの主なる神です。

イエス・キリストの父なる神です。

この歴史の主である神が決断された時、神の支配は必ず訪れるのです。

【神の支配が訪れる時、私たちがすべきこと】

神の支配が訪れる時、私たちに求められることがふたつあります。

イエス様はこのように命令されました。

悔い改めて福音を信じなさい(マルコ1:15)

私たちに求められるふたつのこととは、

悔い改めること、そして、信じることです。

神の支配が及ぶ時、まず私たちには悔い改めが求められます。

私が握りしめていたものを手放し、神のものとする必要があるのです。

自分が支配し続けているものをすべて手放し、神の支配の下に置いて、

神に目を向ける必要があるのです。

この方がすべてのものを創造し、すべてのものの主であり、

すべてのものを支配しておられる。

この事実に目を向けるように、私たちは招かれているのです。

そのようにして神に立ち帰ることが求められているのです。

私は、「悔い改め」という言葉を聞く時、思い出す聖書の出来事があります。

それは、預言者ヨナの時代、ニネベの人々に起こった出来事です。

ニネベという街は、イスラエルの敵国アッシリアの首都でした。

神は預言者ヨナに向かって、こう言われました。

「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」(ヨナ書3:2)

正直、不可能だと思うでしょう。

多くの国を苦しめ、暴虐の限りを尽くすアッシリアの人々に、神の言葉が届くわけがない、と。

しかし、私たち人間の目には不可能に思えた出来事が、ヨナの時代に起こったのです。

ニネベの人々は悔い改め、神に立ち返ったのです。

ニネベの人々の大回心が、ヨナの時代に起こったのです。

神が、不可能に思える、大回心を起こしたのです。

そして、この神が、私たちの王として、私たちの生涯を支配し、導こうとされています。

ヨナの時代に起こったニネベの人々の悔い改めの出来事は、私たちに確信させます。

時が満ちる時、神が定めたその日、神の支配は必ず訪れるということを。

ですから、私は信じます。

神の支配は必ず訪れる、と。

わたしの内に。

教会の内に。

この地域に。

この国に。

この世界に。

そして、人々の罪が支配的に思えるような場所にこそ、神の支配は訪れる、と。

イエス様は、私たちを罪の支配から解き放ってくださったのですから。

十字架に架かり、死んで、よみがえることによって。

私たちは、神が引き起こす驚くべきみわざに信頼して、歩んでいきましょう。

神の支配は、私たちのもとに限りなく近づいているのですから。

そして、神の国が到来することを、祈り求め続けましょう。

御国を来たらせたまえ。

御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ、と主の祈りで祈っているように。

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