「わたしの助けはどこから来るのか」(石田学牧師)
説教題 「わたしの助けはどこから来るのか」
聖書 ルカによる福音書12:13ー21、エレミヤ書9:22−23
説教者 石田学牧師(日本ナザレン教団・小山教会)
イエス様が大勢の人々に教えていた時のことです。
教えの最中に、群衆のひとりがイエス様に向かって、
教えの内容とは関係のないことを言い始めました。
先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。
この人は、兄との間で遺産をめぐって争い、不満があったのでしょう。
イエス様にそんなことを頼むのは変だと思うかもしれません。
しかし、ラビと呼ばれたユダヤの教師は、悩み事相談も受けていました。
こんな苦情も、ラビには持ち込まれたのです。
イエス様に訴えた人は、イエス様をラビだと考えたのでした。
たとえイエス様がラビだと思われていたとしても、
ラビが教えを語っている最中に、遺産分配の相談などするのは変です。
この人は、遺産の分け前のことで頭がいっぱいになっていて、
兄弟に対する不満や怒りで心が張り詰めていたのだと思います。
だから、大勢の人の前にもかかわらず、こんなことを言い出したのです。
時と場を考えるゆとりさえ失っている状態でした。
まわりの群衆が唖然とする様子が思い浮かばれます。
イエス様にとっても迷惑なことです。
そこで、イエス様はその人に向かって、
見当違いの頼み事をしていることを告げ知らせたのでした。
だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。
でも、そう言って突き放しただけで終わりませんでした。
この人に対してはもちろんのこと、群衆に対しても、
財産に対する過大評価を戒めて、貪欲に用心すべきことを教えました。
だれでも、財産は多く手に入れたいと願います。
財産で買うことのできないものがあることも、理屈ではわかっています。
それでも、財産に心を向けすぎると、
少しでも多く富を獲得することばかりに命を注ぎ込んで、
財産のために生きるようになり、
財産を得ることが命の目的になってしまいます。
より多くを手に入れることが生きる目的になってしまうこと。
それが貪欲です。
貪欲は、わたしたちに関係のない話どころか、
わたしたちにとって、最も身近で危険な落とし穴です。
富や財産は容易にわたしたちの主人になってしまうからです。
だから、イエス様はわざわざ、二重の警告を語ったのでした。
心が遺産の分け前に占領されてしまっていた人はもちろん、
その場面を見ていた群衆に対しても、必要な警告だったからです。
どんな貪欲にも注意を払いなさい、用心しなさい。
「注意せよ」「用心せよ」と、二つの動詞を重ねた二重の警告は、
イエス様の言葉でもめずらしいことです。
財産に心が占領され、富に魅了されてしまうことは、
それほどに危険なことだということなのでしょう。
人の生き方をゆがめ、魂を滅ぼすことになるからです。
イエス様は決して禁欲主義者ではなく、
財産を持つことが悪いことだとは言いません。
財産を命の目的として、富に信頼して生きることを警告するのです。
神を信じ、信仰的な生き方をすることとの対極に、
財産を信じ、富に依り頼む生き方があるということなのです。
イエス様が富の問題をどれほど深刻に考えていたかは、
二重の警告を与えただけで終わらないことからわかります。
イエス様は警告に続けて、さらに、
富の問題についての「たとえ」を語ったのでした。
それは、とても恐ろしいたとえです。
最初にイエス様に頼み事をした人や、周りの群衆だけでなく、
今日、このたとえを聞くわたしたちにも関係があります。
もしこのたとえを真剣に受け止めるなら、
わたしたちは生き方が変わることでしょう。
そのことを心に留めながら、もう一度、たとえを見てみましょう。
ある金持ちの畑が豊作だった。
金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」
と思い巡らしたが、やがて言った。
「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、
そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。
『さあ、これから先何年も生きてゆくだけの蓄えができたぞ。
ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」
しかし神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
お前が用意した物は、いったいだれのおのになるのか」と言われた。
自分のために富を積んでも、
神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。
愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。
こんな恐ろしい言葉を神に告げられたくはありません。
でも、ちょっと待って下さい。
このたとえを見て、皆さんは疑問に思いませんか?
この農夫の、いったいどこが悪いのかと。
彼は悪事を働いたわけではありません。
誰かのものを奪ったわけでもなく、不正をしてもいません。
その豊かな収穫は、まっとうな働きの成果です。
それを蓄えて、労働と恵みの実りを楽しんで、どこが悪いのでしょうか。
なぜ神は、この人を「愚かな者」と呼んだのでしょうか。
その疑問にタイする答えの手がかりは、たとえ自体の中にあります。
その夜、彼の寿命が尽き、命が取り上げられます。
その時、神は彼に告げるのです。
お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。
この神の問いかけは、ある重大な事実を含んでいます。
彼の富は、ほんとうのところ、彼だけのものではないという事実です。
彼だけのものではないというのはどういうことでしょうか。
彼の妻や子どもたち、彼の兄弟たちのものでもあるということでしょうか。
いいえ、そんなことではありません。
家族や親族を含めて考えるべきだといったような意味であれば、
結局は、自分の富は自分のものだと考えていることになります。
この人が「愚か者」なのは、ある重大な考え違いをしているからです。
自分が得たものは、自分だけのものだと思い込む考え違いです。
イエス様はたとえをこのような言葉で語り始めました。
「ある金持ちの畑が豊作だった」。
彼は最初から金持ち、つまり自分の必要以上に財産を持つ人でした。
その上、もっと多くの豊かさを手に入れたとき、
さらに得た多くのものも、彼は全部自分のものだと考えたのでした。
それは、神を信じない人、神を畏れない人の考え方です。
なぜなら、神を信じて畏れる人は、
自分の得たものが自分だけの力によるのではなく、
神の恵みによることを知り、
だからこそ、自分の得たものを自分だけのものとして独占することは、
神に対する冒瀆であり、罪だと知るはずだからです。
この人は農夫です。
農夫は畑を耕し、種を蒔きます。
しかし、彼が育て成長させるわけではなく、
農夫が実を稔らせるわけではありません。
収穫は、神の創造のわざの恩恵にあずかることです。
それは農夫だけのことではなく、すべての人に言えます。
人はだれも、神の恵みのわざによって生かされ、支えられているからです。
人はどのような職業であれ、
究極的には天の恵みにあずかって生きています。
食べ物も飲み物も、生きる環境も、突き詰めれば神から受けたものです。
それを人々は収穫し、売り買いし、多くを得て豊かになろうとします。
その時、神への畏れと信仰、そして感謝が必要です。
神への畏れと信仰がなければ、
人は自分の得たものが自分だけのものと考えます。
神への感謝がなければ、人は自分で自分に感謝するようになります。
その結果、すべての人や生き物が受ける権利のある神の恵みの取り分まで、
自分のものにして奪い、独占してしまいます。
イエス様が二重に警告した貪欲です。
豊かさに差があること自体は、すばらしいことではないとしても、
この世界では必然的で避けがたいことです。
他の人と比べて豊かであること、多く持つことが罪なのではありません。
自分の得た富が自分だけのものだと思い込んで、
それを独占することが問題です。
そうであれば、これは金持ちだけの問題ではないことがわかります。
全部が自分のものであると考えて独占することと、
自分の富を命の拠り所にすることは、
多く持つ人にとっても、少しだけ持つ人にとっても、
等しく問題です。
わたしたちは結局、すべてを天の神の恵みに負って生きています。
自分の得たものを分かち合うことが求められています。
かつて、預言者エレミヤは神の言葉を人々に告げ知らせました。
知恵ある者は、その知恵を誇るな。
力ある者は、その力を誇るな。
富ある者は、その富を誇るな。
では、何を誇るべきなのでしょうか。
エレミヤは告げます。
「誇る者は、主なる神を知ることをこそ誇れ」と。
それがエレミヤを通して神が求めることです。
このことは、別の言い方をするなら、
知恵や、力や、富に目を向けるのではなく、
助けが神から来ることを知って、
神に目を向けて生きよ、ということです。
恵みも祝福も、実りも糧も、みな神から来る。
そのことをわきまえてはじめて、人は貪欲から救われます。
そして、富や財産よりもはるかに優れた、真に幸いな恵み、
つまり、わたしたちの救いである、
罪の赦しと、天の国と、永遠の命の約束が、
神から来ることを、わたしたちは知ることになります。
詩編121編の詩人は、人々に一つの問いを投げかけます。
わたしの助けはどこから来るのか。
この問いはすべての人が問われるべき、重要で不可欠な問いであり、
多くの人が、この問いに対して間違った答えを出します。
「わたしの助けは、わたしの富から来る」と。
だから詩人は人々に問いかけて、直ちに真実の答えを示すのです。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
わたしたちは、この世において生きる限り、
常に、生涯にわたって、自らに問いかけ続けることが必要です。
わたしたちの助けはどこから来るのか。
わたしたちはこんな風には答えません。
「わたしの助けは、わたしの富から来る」などと。
わたしたちは、天に目を向け、神を見上げ、胸をはって答えましょう。
わたしたちの助けは、天と地を造られた主から来ます。
事実、わたしたちは週毎に、礼拝をこの信仰的確信からはじめるのです。
わたしたちの救いはどこから来るでしょうか。
わたしたちの救いは、天と地を造られた主から来ます