「共に苦しみ、共に喜ぶ」(説教要旨)(土肥努牧師)
- urawa-church
- 2014年8月17日
- 読了時間: 2分
説教題 「共に苦しみ、共に喜ぶ」(説教要旨)
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 12:12−27、エゼキエル書34:11−22
説教者 土肥努牧師(日本ナザレン教団・事務主事)
私たちの体は、驚くべき多様性と統一性をもつ神さまの最高傑作であると言えます。パウロは、本日の聖書の箇所でその体を譬えとして用い、教会はキリストの体であり、私たちは一つのキリストの体へと結び合わされ、その部分となっているという事実を語っています。
パウロがここで語ろうとしている最も大事なことは、キリストの体の一部分として、他の部分、すなわち兄弟姉妹と共に歩むことです。神さまは、私たちがどんなに弱く小さい者であっても、他の兄弟姉妹と共にキリストの体の部分として共に生きることをこそお喜びになります。反対に、どんなに優れた能力を持ち、多くの奉仕をすることができたとしても、それが自分一人の個人プレーになってしまい、兄弟姉妹と共に歩むことになっていないならば、神さまはそのような働きをお喜びにはならないのです。
26節の「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」という言葉も、このことと関係しています。私たちは、自分の苦しみや喜びに対して持っている敏感さを、他の人の苦しみと喜びにまで向けていかなければなりません。しかし実はそれだけではなくて、私たちが、自分の苦しみや喜びを、キリストの体の部分として、兄弟姉妹と共に歩む中で苦しみ、喜んでいるということが大切なのです。そうなっていて初めて、他の人もその喜びを共に喜び、苦しみを共に苦しむことができるのです。
一つの部分が尊ばれることを皆が共に喜ぶことができるのは、その尊ばれる働きが個人プレーではなく、兄弟姉妹と共に歩む中での働きとなっていればこそです。自分一人の業として何らかの業績をあげ、それを他の人が共に喜ばないと言って批判するのでは意味がありません。大事なのは、人に尊ばれるような業績を上げることではなくて、キリストの体の部分としての自覚と姿勢をもって、他の部分である兄弟姉妹と共に歩むことなのです。そのように歩む教会においてこそ、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」という御言葉が現実のものとなるのです。
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