「子よ、あなたの罪は赦される」
説教題 「子よ、あなたの罪は赦される」
聖書 マルコによる福音書2:1ー12、イザヤ書43:18−25
説教者 稲葉基嗣牧師
【病気の苦しみ】
私たちは病気になると、様々な苦しみや不安を抱きます。
高熱が出たときは、このまま自分は死んでしまうのではないかと思う時もあるでしょう。
事実、それで命を落とす人だっています。
ただ風邪をひいてるだけでも、苦しいことには変わりません。
普段、当たり前にできることが、できなくなったり、
予定していたことをキャンセルしなければならなかったりなど、
病は様々な形で、私たちに影響を与えます。
【病と罪の関係】
新約聖書の時代の人々は、病気になった人を見た時、こう思いました。
「あの人は、罪を犯したから病気になったのだ」、と。
イエス様の弟子でさえ、目の見えない人を見た時にこう言っています。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ9:2)
病気と罪を結びつける。
これがこの時代の人々の常識でした。
そのため、病を抱えた人々は二重の苦しみを負っていたのです。
ひとつは、今自分が抱えている病気や身体の障害などから来る苦しみです。
怪我をすれば、当然痛いし、生活も不便になります。
病気で寝こめば、治るまで、苦しまなければなりません。
そしてもうひとつは、「あの人は罪人だ」と人々から言われる苦しみです。
自分の病気がすぐに治れば良いのですが、
治らなければ、ずっとそれを言われ続けることになります。
あの人は、そんなに大きな罪を犯したのか。
あの人は、まだ罪を犯し、神に背き続けているのか、というように。
現代に生きる私たちから見れば、とてもおかしな話です。
しかし、それが当時の常識でした。
この常識が、病で苦しむ弱い立場にある人々を苦しめていたのです。
【中風の人と4人の友人】
イエス様のもとに連れて来られた「中風の人」も、
この当時の常識に苦しんでいました。
中風とは、脳出血後に、後遺症として残る半身麻痺のことです。
つまり、当時この病気になってしまったら、ずっと半身麻痺を抱えながら生きなければならなかったのです。
それは、彼が死ぬまで「罪人」と人々から言われることも意味していました。
彼は自分が中風になったことを通して、自分が罪人であることに深く苦しんだことでしょう。
そんな彼の姿を見た4人の友人たちがいました。
きっとこの4人の友人たちは、彼が異常なほど罪に苦しんでいる姿を見て、彼を心配したのだと思います。
彼は、自分ではどうしようもできない現状に絶望していたのだと思います。
ですから、4人の友人たちは、彼の病気が治ることを心から願いました。
そして、最近巷で話題のイエスという人のもとへと連れてきたのです。
「あのイエスという人なら、きっと他の人々の病気を治されたように、
彼の病気を治してくれるはずだ」と、期待して彼をイエス様のもとへ連れて来たのでしょう。
【彼らの信仰を見て】
しかし、イエス様のいる家は人で溢れていました。
この群衆のため、彼らはイエス様に近づくことができませんでした。
しかし、彼らは諦めませんでした。
彼らは屋根の上に上り、屋根に穴を空けて、中風の人をイエス様のそばに吊って下ろしたのです。
どうしてもイエス様のもとに中風の人を連れて行かなければいけない、
イエス様のもとに連れて行きさえすれば、きっと彼の病気を治してもらえる。
4人の友人たちは、そう信じて行動しました。
当時の家のつくりが簡単だったおかげでそれができたのですが、
このような4人の友人たちの信仰が、彼らの行動を大胆なものにしたのです。
彼らのこの姿をイエス様は見ました。
その時の様子を、マルコはこのように書き記しています。
イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。(マルコ2:5)
4人の友人たちの信仰を見て、イエス様は深く理解されたのです。
中風の人がどれほど自分の罪に苦しんでいるかを。
どれほどこの友人たちが、中風の人の病気が癒されることを願っているかを。
中風の人が罪に絶望していることから解放されて欲しいと願っていることを。
そして、彼らが、イエス様ならこの人の病を治せると確信していたことを。
ですから、イエス様は中風の人を憐れんで、言われました。
「子よ、あなたの罪は赦される」(マルコ2:5)
中風の人の一番の苦しみは病気ではなく、罪意識にありました。
ですから、イエス様は病気を癒す前に、こう言ったのでしょう。
私があなたの罪を赦す。
だから、もう苦しまなくていいんだよ。
そう、愛のまなざしで彼を見つめたのです。
【罪を赦す権威】
しかし、なぜイエス様はそのようなことが言えたのでしょうか。
なぜ、イエス様は罪を赦せるのでしょうか。
イエス様が、神の子であり、「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)であることが理由であると、私たちは聖書を通して知ることができます。
イエス様は、私たちの罪を赦すために、この地上に来られた存在だからです。
しかし、当時の人々にそのことはまだ明らかにされていませんでした。
ですから、律法学者たちが覚えた疑問は、当然抱く疑問でした。
「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」(マルコ2:7)
お前は神でもないのに、なぜそういうことを言えるか。
そんな権威などないだろう。
と、彼らは心のなかでつぶやいたのです。
そして、この中風の人の病気はまだ治っていなかったため、
病気の原因を罪と考える律法学者たちは、「この人はまだ病気のままだから、この人の罪はまだ赦されていない」とも考えたことでしょう。
【起きなさい】
律法学者が覚えた自分への批判を見抜いたイエス様は、言いました。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(マルコ2:8〜10)
実際、どちらがやさしいのでしょうか。
きっと、口で言うだけならば、「あなたの罪は赦された」ということの方が簡単なのでしょう。
罪が赦されたとしても、それは目に見えないことなので、実際どうなったか証明することができないのですから。
ですから、イエス様は病気と罪を結びつけて考えている人たちの前で、こう言うのです。
「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(マルコ2:11)
イエス様からこのように言われると、中風の人は病気が癒され、起き上がることができたのです。
当時の人々にとって、これは目に見える、罪が赦されたという事実だったのです。
このようにして、イエス様が罪を赦す権威をもっていることが証明されたのです。
【私たちの抱える病】
罪を赦す権威を確かに持っているイエス様は、私たちに対してもこう言われています。
「子よ、あなたの罪は赦される」(マルコ2:5)
私たちの抱える罪とは一体どのようなものでしょうか。
聖書は、神を神としないことを罪といいます。
この罪のひとつの特徴として、自己中心があります。
常に「私」を中心に置いて生きる姿です。
自分を中心に物事を考える時、神が願う生き方から少しずつ、少しずつ離れていきます。
自分を中心に物事を考える時、周りの人を傷つけながら生きることになります。
確実に、私たちの内には罪があります。
病気が罪を表しているのではありません。
この罪こそが、私たちすべての人間が抱える病なのです。
自分の罪ばかり見つめる時、私たちは自らに失望します。
友人を傷つけた時。
人を批判している自分に気づいた時。
汚い言葉を吐く時。
様々な仕方で、私たちは自分の内側にある罪に気付きます。
罪に気づけば気付くほど、セルフイメージがどんどん低くなっていきます。
自分なんてという気持ちになり、自分を大切にしなくなっていきます。
そのような私たちに対して、イエス様はこう言われます。
「あなたの罪は私によって赦されている。それを信じなさい。
もう自分の罪で苦しまなくていいんだ」と。
イエス様は私たちに語りかけておられるのです。
そして、言われます。
「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」(マルコ2:11)
罪という病の床から、起き上がり、私のもとに帰りなさい、と。
神に愛され、罪を赦されているこの喜びを胸に、
私たちはまた、それぞれの場所へと出て行きましょう。