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「安息日は誰のためのもの?」

説教題 「安息日は誰のためのもの?」 聖書 申命記5:12−15、マルコによる福音書2:23−28 説教者 稲葉基嗣牧師 【人々の注目が集まる】 イエス様は様々な人々から注目を集めていました。 神の前に敬虔な人として、 そして、聖書をよく知る教師として、イエス様は人々から見られていました。 しかし、イエス様に人々の注目が集まったのには、その他にも理由がありました。 悪霊を追い出し、多くの人の病を癒す。 そして、当時の社会からのけ者にされていた、罪人や徴税人たちと食事をする。 その上、敬虔な人なら当然行うはずの断食を行わない。 このようなイエス様の行動や語る言葉を、人々は見聞きしてたため、 イエス様と彼の弟子たちの行動に注目するようになりました。 そして、ある安息日にも、イエス様と弟子たちの行動に人々の注目が集まったのです。 【安息日にしてはならないこと】 安息日は、当時も、今も、重要な日としてユダヤ人から受け止められています。 この安息日について、律法にはこのように書いてあります。

七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。(申命記5:14)

社会からのけ者にされていた、罪人や徴税人たちと食事をし、 敬虔な人なら当然行うはずの断食を行わないイエス様と弟子たちが、 安息日をどのように過ごすのかに、人々の関心が集まっていました。 そのような中、弟子たちのある行動が問題となったのです。 マルコは、弟子たちのとった行動について、このように記しています。

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。(マルコ2:23)

勝手に他人の畑に入ったことは問題にはなりませんでした。 鎌を使わずに、手で穂を摘んで食べる分には、律法で許されていました。 しかし、ファリサイ派の人々は、弟子たちの行動を問題視して、イエス様に尋ねました。

「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」(マルコ2:24)

一体、弟子たちの行動の何が問題だったのでしょうか。 申命記には、このように記されています。

七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。(申命記5:14)

「いかなる仕事もしてはならない」という戒めを、

弟子たちは破っているとファリサイ派の人々は考えたのです。

ユダヤ人たちは、神が与えた律法を出来る限り守るため、 律法の命じることについて、細かなところまで考えました。 安息日の掟についても、そうでした。 人々は安息日に「仕事」と考えられるものは何なのかについて論じ、 労働の範囲を定めていったのです。 その結果、39の項目に労働は分類され、安息日にしてはいけないことが規定されました。 この39の項目の中に、穂の刈り取りが含まれています。 そう、安息日にしてはいけない穂の刈り取りをしたことが、 弟子たちが非難される原因だったのです。 安息日なのに、あなたの弟子たちは一体何をしているんだ? なぜ、安息日にしてはならないことをするのか、と批判の込められた質問を受けたのです。 【規定よりも優先されるべきもの】 この質問に対して、イエス様はこのように答えました。

「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」(マルコ2:25−26)

イエス様は、イスラエルの偉大な先祖の一人であるダビデの名前を挙げることによって、この質問に答えたのです。 ダビデは空腹を覚えた時、祭司以外は食べてはいけない供えのパンを食べた、と。 この時、ダビデは、サウル王のもとから逃げている時でした。 サウル王から命を狙われ、逃げて来た時だったため、食事をとる暇もなかったのでしょう。 そんなダビデが、祭司以外は食べてはいけない供えのパンを食べたのです。 ダビデがパンを食べることが許されたのは、ダビデに食べるものが必要だったからです。 ですからこのダビデの物語は、祭司に与えられている規則よりも、 人間の必要性や緊急性が優先されるべきことがある、ということを私たちに伝えています。 イエス様は、このダビデの物語を引用することによって、 安息日の規定よりも、優先されるべきことがある、と主張しているのです。 安息日の規定よりも優先されるべきこと。 それは、人間の必要性や緊急性のあることである、と。 【人が安息日のためにあるのではない】 ですから、イエス様は言われたのです。

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(マルコ2:27)

イエス様は、安息日に溢れている神の恵みを取り戻そうとしているのです。 当時のユダヤ人たちは、神に喜ばれる生活を送りたいと願い、安息日に関して様々な規定を作りました。 しかし、いつしか、それらのものは自分たちの生活や考えを縛り始めたのです。 安息日に、必要性のあることを行えない。 安息日に、緊急性のあることに取り組めない。 安息日に関して、自分たちで加えていった規定に縛られ、 思うように動けなくなっていたのです。 まさに、安息日の奴隷となっていたのです。 それはイエス様の語られた言葉とは、全く逆の状態です。 「人は、安息日のためにつくられた。安息日が人のためにあるのではない」と。 人々は安息日の奴隷となり、神が安息日を通して与えている恵みを忘れていました。 ユダヤの社会がまさにそのような状態であることにイエス様は気付いていたからこそ、このように言われたのです。

安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。(マルコ2:27)

神が与えた律法は、人のために与えられているのです。 神が私たち人間を愛しているからこそ、 与えてくださったいることを忘れてはならないのです。 【安息日とは?】 では、安息日は、何のためにあるのでしょうか。 申命記に記されている安息日の戒めには、このように記されています。

安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。(申命記5:12−15)

神は安息日の戒めを与える際、この安息日を通して、 エジプトでの奴隷状態からの解放を思い起こすように命じています。

あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。(申命記5:15)

そう、安息日とは、解放を喜ぶ日なのです。 しかしそれにも関わらず、安息日という規則に縛られている現実がありました。 そう、奴隷状態に逆戻りしてしまっていたのです。 だから、神は、イエス様を通して、改めて問い掛けられたのです。 安息日は一体誰のためのものなのか、と。 そう、安息日は、人のためのものです。 神がエジプトから解放してくださったという、神の恵みのわざを思い起こし、与えられた自由を喜ぶために人間に与えられたのが安息日なのです。 このように安息日は喜びに溢れる日なのですから、 イエス様は、戒律尽くめの安息日から、当時の人々を解放しようとされたのです。 解放と自由を心から喜べる安息日を過ごすようにと、イエス様は招いておられるのです。 【奴隷状態からの解放を喜ぶ日】 今、私たちは毎週日曜日に礼拝を守っています。 それは厳密に言えば、安息日を守っているとは言えません。 というのは、安息日とは、土曜日を指すからです。 教会が日曜日に礼拝を守っているのは、日曜日の朝にイエス様が死を打ち破り、復活されたからです。 イエス様の復活を記念して、私たちは日曜日に礼拝をしているのです。 しかし、私たちは日曜日に礼拝を守っているのだから、安息日など全く気にしなくて良いというわけではありません。 この安息日に込められた意味や、そこにある喜びを引き継いで、私たちは礼拝をしているのですから。 安息日。 それは奴隷状態からの解放を喜ぶ日です。 そもそも、私たちは奴隷だったのでしょうか。 使徒パウロを通して、神は明確に語ります。 「あなたがたは、かつては罪の奴隷」(ローマ6:17)だった、と。 罪の奴隷。 それは、神の言葉に従わず、 自分の内に根付く罪に従って生きている状態です。 罪の奴隷であったときなど全くないと言える人は、誰一人いないでしょう。 私たちを奴隷状態にするものは数多くありますし、 私たちはあまりにも簡単に罪の奴隷になってしまいます。 人と関わる時、憎しみや妬みが心に湧いてきた時、 憎しみや妬みの奴隷になってしまう。 自分が心から信頼するもののためになら、人は、非情にもなることもあります。 私たちは、あまりにも簡単に罪の奴隷になってしまうのです。 そう、神ではなく、自分を喜ばせる生き方を選び取る罪の奴隷に。 そのような私たちを見て、神は憐れんでくださいました。 私たちを愛してやまない神は、イエス様を私たちのもとに送ることによって、私たちに解放をもたらしてくださったのです。 イエス様の十字架の死と復活を通して、神は私たちを罪の奴隷から解放してくださったのです。 もはや、罪の奴隷として生きる必要はない。 あなたは、罪の奴隷ではなく、神の子どもだ、と神は私たちに宣言されているのです。 神の子どもは、罪に支配されて生きる必要はありません。 神の子どもは、神の愛に満たされて生きる存在です。 神の愛を受けて、神の愛に支配されて生きる者です。 私たちは、人によっても、規律によっても、憎しみによっても、妬みによっても支配されるべき者ではありません。 神は、私たちを罪から解放してくださり、神の子としてくださったのですから、 神の子である私たちは、神の愛を受けて、神の愛に支配されて生きようではありませんか。 「安息日の主」であるイエス様が、解放を宣言してくださったのですから。 神の与えてくださる自由と喜びに感謝して、私たちは神を礼拝し続けましょう。

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