「神の国の福音に生きる」
説教題 「神の国の福音に生きる」 聖書 マルコによる福音書4:21−25、レビ記19:15−18 説教者 稲葉基嗣牧師
【神の国が明らかにされる】
イエス様は、「種蒔きのたとえ」を話した後、続けて人々に語りました。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:21−23)
イエス様はこの言葉を、一体どのような意味で語ったのでしょうか。
不正や悪事は、いつか明らかにされるということでしょうか。
すべてのことは、神の前に明らかであるということでしょうか。
そのどちらでもありません。
それは、このテキストの前後関係から明らかです。
イエス様は、4章1節から20節までは、神の国のたとえを語っています。
そして、26節から34節も、神の国についてのたとえです。
この流れを無視して、神の国のたとえ以外のことが語られたとは考えにくいことです。
ですから、ここで露わになり、公にされるものとは、神の国のことです。
たとえ今は、すべての人が神の国がどのようなものなのかがわからなくても、
それは明らかになる。
今、私たちの目の前に広がっている光景は、
神の国が約束するものとは程遠い現実だったとしても、神の国はやがて明らかになる。
イエス様は、ともし火が来るというたとえを通して、その事実を語ったのです。
【主イエスは「来た」】
では、神の国は一体どのような方法で明らかにされていくのでしょうか。
ここで注目すべき重要な言葉があります。
それは、「来る」という言葉です。
この言葉は、マルコによる福音書にとって、とても重要な言葉です。
それは、「神の子であるイエスが来る」という事実を告げ知らせる言葉です。
私たちに救いを与える方が「来る」という希望の言葉です。
そのような「来る」という言葉が、ここではわざと付けられています。
実際、「ともし火は、升の下や寝台の下に置くためにあるだろうか」と言っても、意味は通るでしょう。
しかし、イエス様は敢えて「ともし火を持って来る」と言われたのです。
「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか」と。
そのように語ることによって、
イエス様は、ともし火を持った人が「来る」ということを伝えているのです。
ともし火、それは、暗闇に光を与えるものです。
このともし火を持ってくる人こそ、イエス様自身です。
暗闇に光を差し込むために、イエス様は来た、とここで宣言されているのです。
暗闇に負けることの無い、圧倒的な光をこの世界に灯す方として、
決して消えることのない光を与えてくださる方として、イエス様は「来た」のです。
そして、罪の支配から人々を解放し、神の光の内に生きるようにと、
イエス様は私たちを招いておられるのです。
神の国の福音に生きるようにと。
【神の国は、神の言葉を聞く者たちを通して明らかにされる】
このたとえが、種蒔きのたとえの後に話されたことには、とても重要な意味があります。
それは、種蒔きのたとえは、神の言葉を聞くことの重要性を語るからです。
神の言葉が語られ、
それを受け取り、信じ、従う人々の内に、神の国が広がっていく。
神の言葉が実を結び、
30倍、60倍、100倍にもなる、ということが語られています。
このような種蒔きのたとえを語った後に話した21−25節の言葉の中で、
イエス様は、言われました。
聞く耳のある者は聞きなさい。(マルコ4:23)
イエス様は、私たちが神の言葉を聞くことによって、
神の国が、人々の前に明らかになっていくと語るのです。
そう、イエス様の言葉を聞いた人々によって、
神の国の福音は、明らかにされるのです。
神の言葉を聴き、その言葉を信じ、従う人々の言葉、行動、考え、存在そのものを通して、神の国は告げ知らされていくのです。
【誰もが心の中に「測り」を持つ】
続けてイエス様は、警告を与えます。
それは、神の言葉を聴き、神の福音に生きるべき私たちへの警告です。
「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マルコ4:24−25)
イエス様は、21節で語った「升の下」という言葉から連想して、この話を始めました。
21節で「升」と訳されている言葉は、ギリシア語で「モディオス」といいます。
「モディオス」は、一定の数量の穀物を測ることの出来る容器を指す言葉です。
人々は、この容器を用いて、ともし火の火を消したり、
穀物の量を測ったりしていたのです。
ですから、ここで語られている「秤」とは、21節で語られている「升」、
つまり穀物を測る容器である「モディオス」のことを指していると考えるのが自然でしょう。
イエス様は、このたとえを通して、
誰もが持っている、心のなかにある「測り」の用い方について警告をしています。
新共同訳聖書は、24節を、警告の要素を少し弱めた形で訳しています。
しかし、この箇所のギリシア語を読んでみると、
もっと警告に比重が置かれた形で書かれていることに気付きます。
ある聖書学者は、この箇所をこのように訳しています。
「あなた方が測るその測りによって、あなたがた自身も測られることになろう。あなた方に対しては更に付け加えられることにもなろう。」(田川建三訳)
ここで警告されていることは、こうです。
あなたがたが他人を測るその尺度が、あなた方自身に対しても適用される。
そしてそれどころか、他を排除しようとするあなた方は、
もっと厳しい尺度によって測れることになる、とイエス様は言われたのです。
ここでは「他人を測ること」は、「他人を裁くこと」という意味で用いているのです。
それは、人々の前に明らかにされた神の国のあり方とは、程遠いものです。
神の国において、私たちは、互いに愛し合い、助け合い、仕え合う。
そのような約束が与えられています。
ですから、神の国の福音を知らされている者が、
他人を測り、裁き、憎しみに支配され、排除するということがないように、とイエス様は警告しているのです。
それは、人々の前に明らかにされた神の国の福音を、覆い隠すような生き方だからです。
【「モディオス」をどのように用いるべきか?】
このたとえにおいて、イエス様は、私たちが心の中に持っている「升」=「モディオス」の用い方を教えています。
それは、簡単に光を隠すことができるものです。
神の国の福音を告げ知らせる光を。
イエス様が語った言葉を。
ともし火の上に覆いかぶせるように、私たちは自らの持つモディオスによって、
それらのものを、人々から簡単に隠すことができるのです。
また、心の中にある測りを用いることによって、
私たちは、あまりにも簡単に他人を測り、裁くことができます。
批判することも、排除することもできます。
そのような測りを私たちは持っているのです。
私たちは、この測りをどのように用いるべきなのでしょうか。
そもそも相応しい用い方はあるのでしょうか。
「モディオス」という容器は、穀物を測る容器です。
そう、畑から収穫した穀物の量を測るのです。
収穫は、すべて神から与えられます。
それは、穀物だけではありません。
私たちには、日々、様々なものが神から与えられています。
食べるものも、着るものも、それを買うためのお金も、時間も、命も。
すべて、神から与えられている恵みです。
罪の赦しも、救いも、神から与えられています。
神の愛も、復活の希望も、すべて神から与えられています。
私たちは、自らの心のなかにある測りによって、
神から与えられているものを測るべきなのではないでしょうか。
これらのものは、神から、溢れるばかり与えられています。
そのため、私たちが持つ「測り」では、測りきれないでしょう。
溢れるばかりでしょう。
しかし、それで良いのです。
神から、多くのものが溢れるばかり与えられているという事実を確認するためにこそ、
私たちは心の中にある「測り」を用いるべきなのです。
【溢れ出る神の恵みを、分け与える生き方へ】
他人を測り、裁き、憎しみ、争い合い、排除し合うとき、
私たちは、相応しい形で、私たちの持つ「モディオス」を用いているとは言えません。
神の恵みを受け止めることを、やめて、
他の別のことのために、容器を用いているのですから。
そうではなく、私たちは、この「モディオス」を相応しく用いましょう。
神の溢れるばかりの恵みを知るために。
そして、溢れ出る神の恵みを、私たちは互いに分け合っていくのです。
それこそ、神の国の福音に生きる私たちの生き方です。
神の国は、私たちが互いに愛し合い、助け合い、仕え合うことを通して、
この世界に明らかになっていくのです。