「神の言葉を引き起こす人」
説教題 「神の言葉を引き起こす人」 聖書 ヤコブ書1:19−25、イザヤ書55:10−11 説教者 野村友美神学生
<言葉の力>
言葉が人をつくる、という言い方をよく聞きます。
前向きな言葉が、その言葉を口にした本人を前向きな気持ちにする。
美しい言葉遣いがその人の品性を形づくる。
ほめ言葉をかけ続けた水からは美しい氷の結晶ができて、逆に悪口を浴びせ続けた水からは
形の崩れた結晶ができる、などという実験も流行っているようです。
日本には古くから“言霊”という概念がありますが、言葉にはやはり何かしら、事柄を動かす力
があるように思います。
マザー・テレサが残した有名な言葉があります。
「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」
思考が、そこから生まれる言葉が、人の生き様を造り上げていく。
ならば、私たちは一体どのような言葉によって造り上げられているのでしょうか。
<心に植えつけられた御言葉>
今日お読みしましたヤコブの手紙、この手紙を著者ヤコブは「離散している十二部族の人たちに」という呼びかけで始めています。
世界中のあちらこちらに散らされている神様の民、同じ天の御国の国籍を持つ同朋たちへ。
彼のこの短い呼びかけは、ユダヤ人クリスチャンだけに宛てられたものではありません。
地理的にも、そして時間的にもバラバラの、それぞれの所で神様の民として生きる、全てのクリスチャンに向かって呼びかけたものだと考えられています。
パレスチナの地で彼と同じ時代を生きた人々にも、今この時をこの日本で生きる私たちにも伝えたい言葉を、ヤコブは持っていたのです。
19~20節をお読みします。
「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」
聞くことは遅く、話すことは早く、怒るのも早い。
ヤコブが暗に示している人間像には、耳が痛くなります。
「これが正しいのだ。これが善いことだ。」という相手の主張に耳を傾けるよりも。
わたしたちはつい自分にとっての「正しさ」、自分にとっての「善いこと」を語りたくなります。
相手の「正しさ」が自分の「正しさ」と食い違う時には、「違う!そうじゃない!それは間違っている!」と怒りを覚えてしまいます。
それは、人間の当たり前の感情です。
しかしヤコブは、そんな当たり前の感情に従っていても神の義を、神様の「正しさ」を実現することはできないのだと語るのです。
私たち人間は、みな一人一人違っています。
よく似た人はいるでしょう。
考え方の近い人もたくさんいます。
でも、全く同じ人は一人もいません。
自分と全く同じことを考えて、全く同じことを正しいと思い、全く同じことをする人。
そんな“誰か”は、SFの世界にしか存在しないでしょう。
一人一人の思考が同じではないのですから、一人一人の「正しさ」もまた同じではあり得ません。
重なる部分は多くても、全く同じにはなれないのです。
しかし、神様の義、神様の正しさを実現することにおいて、私たちは同じ一つの国の民とされる。
天に国籍を持つ神の民とされるのだと、ヤコブはこの手紙を通して語っています。
神の義を実現する、とはどういうことでしょうか。
21節をお読みします。
「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植えつけられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」
心に植えつけられた御言葉。
私たちの魂に植えつけられている御言葉。
それは、神様が私たち人間を創造された御言葉です。
人間を神様御自身の似姿として創ったという、あの御言葉です。
“神様の似姿”という御言葉が、全ての人を造り上げている言葉なのです。
今日の箇所の直前、1章18節でヤコブはこう語っています。
「御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。」
自分の考えこそが正しい、自分の思いが自分を造り上げている。
そんな傲慢さを素直に脱ぎ捨てて、神様の御心のままに造られた“神様の似姿”であることを受け入れなさい、と彼は勧めています。
この御言葉こそが、あなたがたの魂を救うことができるのだから、と。
<ヤコブの手紙が語る「行い」>
そしてヤコブは更にこう勧めます。22節、
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」
信仰には「行い」が伴うものだと、彼は手紙の全体を通して読者に訴えかけています。
それは決して、善いことをすればその見返りとして救われる、というようなことではありません。
クリスチャンらしい行動や奉仕をしなければ裁かれる、ということでもありません。
信仰的な人、立派な人だと周囲から見られるように取り繕いなさい。
そんな偽善を行うように勧めているのでもありません。
それは「心に植えつけられた御言葉」、神様の似姿として造られた自分を受け入れることです。
そして、その御言葉を「行う」人になることです。
「御言葉を行う」という言葉は、元々のギリシャ語では「語られた言葉を造り出す、引き起こす」
という意味を持っています。
人間は神様の似姿として造られた。
その御言葉を、この地上に確かに存在する出来事として造り出すこと。
私たちは、神様の似姿として造られた。
それを実際の出来事としてこの世に引き起こすようにと、ヤコブは呼びかけているのです。
自分の思いで造り上げられた人ではなく、神様の言葉に造り上げられた人として生きよう、と。
創造の御言葉を既に知っている私たちは、本来あるべき自分自身の姿を知っています。
知っていながら、目を背けて自分の「正しさ」にしがみつくのならば。
自分の「正しさ」を生きて、神様の「正しさ」を生きようとしないのならば、あなたの信仰は死んだものだ。
ヤコブは手紙を読む一人一人の信仰者に対して、そのように突きつけているのです。
御言葉に耳を傾けるだけで終わる人のことを、彼は「生まれつきの顔を鏡に映して眺める人」に例えています。
神様の似姿として造られた。
その御言葉を聞く時、私たちは鏡に映し出されたようにはっきりと見ることができます。
自分が本来何者であるのかを。
自分が従うべき「正しさ」は何であるのかを。
しかし、いったん御言葉という鏡の前から離れてしまうと、たちまち自分が見ていたものを忘れてしまう弱さを、私たちは皆持っています。
確かに見たはずの“神の似姿”が、やがて曖昧なイメージに過ぎなくなります。
そして自分の好みに、自分の「正しさ」に合わせてその像を補正しようとさえしてしまうのです。
<神の言葉を引き起こす人>
神様の似姿、という御言葉を引き起こす神様の「正しさ」を生きる。
それは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。
私たちは何から目を離さずにいれば、神様の似姿を引き起こすことができるのでしょうか。
その答えが25節に記されています。
「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。」
自由をもたらす完全な律法。
それは、神様からの新しい契約として私たちのところへ来てくださった主イエス・キリストです。
自分自身の罪に縛られ、罪に逆らえずに奴隷となっていた私たちを解放してくださった救い主。
目指すべき神様の御国への、完全な道標であられる御方。
ヨハネによる福音書の初めに、世界を創られた神様の御言葉そのものとして描かれている主です。
そのイエス様が最も重要な掟としてお教えになったのが、心を尽くして神様を愛し、隣人を自分のように愛するということでした。
愛するとは、相手を尊重することです。
相手の思いに関心を持つことです。
自分の「正しさ」で相手を支配するのではなく、お互いの「正しさ」を持ったままで、共に生きようとすることです。
主イエス・キリストから目を離さず一心に見つめ続けること。
主がその言葉と生涯、御自身の存在そのもので教えてくださった愛の掟を守ること。
それは、他ならぬその人自身を幸せにするのだと著者は断言します。
とても最善とは思えないようなことを、時に神様は私たちに与えられます。
本当にこれが神様の最善なのか。
これは神様にとって正しいことなのか。
そう叫びたくなることがあります。
それでも、主イエス・キリストから目を離さずに生きるとき、最後の日には必ず「ああ、これが最善だった。」と言わせてくださる。
その幸せに繋がっていくのだと思います。
「御言葉を行う人になりなさい。」
この勧めで、ヤコブは信仰者に義務を負わせようとしているのではありません。
自分の思い、自分の正しさではなくて、神様の思いに、神様の正しさに従いなさい。
イエス・キリストを道標として、神様を愛し、出会う全ての人を愛して共に生きなさい。
“神様の似姿”という御言葉を引き起こして、本来のあなた自身を取り戻して幸せになりなさい。
彼はそのように全ての信仰者を励ましているのです。
この幸せへの道は、舗装された歩道のように広くて平らで歩きやすい道ではありません。
山道のように狭くて、アップダウンが激しくて、つまずきやすい石がゴロゴロと落ちていて、
弱い私たちにはとても険しい道に思えます。
しかし、私たちは自分一人の力で御言葉を引き起こすのではありません。
預言者イザヤを通して神様はこう宣言しておられます。
「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)。
神様の口から出た言葉、神様の似姿であれという言葉に造り上げられた者として生きる時。
私たちは、決してむなしく神様の元へ戻ることはありません。
神様が望まれることを成し遂げ、神様が与えられたその使命を果たす者とされるのです。
「あなたたちは生れた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」
イザヤを通して、またそう約束してくださっている神様に担われて、神様の思いを共に生きていこうではありませんか。
神様の御言葉を引き起こす人、その群れとして、使命を果たして御許に戻るその日まで、
共にこの世の旅路を歩んでまいりましょう