「狭い門から入りなさい」
2016年 10月 30日 10月第五主日礼拝メッセージ
説教題:「狭い門から入りなさい」
聖書:マタイによる福音書7:13-14
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 」
「神は諦めずに語り続ける」
【狭い門から入りなさい】
先週の礼拝では、「求めなさい」と題してお話し致しました。引き続き今朝は「狭い門から入りなさい」と題してお話しいたします。
去る、24日の早朝から、旅を致しました。おおよそ1800キロのたびを致しました。途中地域の人の為に命を捧げられた一人の僧侶にお会いする為に回り道をしました。この僧侶は既に命を捧げられたのですから、現在、生きて居られるわけではなく既にミイラとして祀られています。綺麗に飾られて、薬師堂に祀られていました。当時としてはとても長生きで、命を捧げられた時、この僧侶は93歳でした。キリストと比較する訳ではありませんが、人のために自分の命を捧げるものは、そう多くはないでしょう。彼は一つの願望をもって大切な命を捧げたのです。それは、人々を苦しめる「はやり病」の鎮静でした。人柱の様に強制されるのではなく、自主的に、自分から命を捧げたのです。彼は、まさに「人の為に命を捨てました」。しかし、この出来事により人々が病から癒されたと言う記録はありません。
第二次世界大戦の収容所でのゴルベ神父の様に特定の人の為に命を捧げた人もありますが、この僧侶は不特定の多くの人たちのために命を捧げました。仏教的に、人の為に命を捧げる事を悟ったと言う事でしょう。かつて洞爺丸台風により、青函連絡船が沈没しましたがこの時に一人の神父が、自分が身に付けていた救命ブイを一人の青年に譲ったことがあります。
この素晴らしい話を信じた人と単なる美談だと言った人が居ますが、現代人には考えられない美談には違いないのですが、この様なに人物が日本にも居たと言う事は、疑う余地がありません。
何れにしても、一人の人間がその信仰を持って人生を全うしようとする時「無私」な人間として、人の為に命を捧げる事が出来たのだと言う事でしょう。
今朝のテーマは「狭い門」ですが。自分の命を捧げる事を求められる信仰生活を好きんで選択する人はそう多くはないでしょう。死をいとわない人生を選択すると言う事はかなり厳しい選択ではないでしょうか。でもこの僧侶は信仰者としての最期に、命を民衆の為に捧げると言う選択を実践したのです。実に厳しい狭い門の選択と実践であります。
コルベ神父も、命を人に与えると言う選択をしました。コルベ神父は主の教えに忠実だったのです。
私たちがこの言葉を使うのは、「受験勉強」の時が一番多いのではないでしょうか。厳しい選抜試験を通過しなければならない事を指しているでしょう。
信仰的にはどうでしょう。実は、誰も見向きしない門を指しています。だれも近づかない、敬遠されがちな門を選ぶべき事を指しています。人が嫌がる事、出来るだけ避けたい事を進んで選択しその道を進みなさいと言う事です。神の御心として、人が嫌がる事を進んでする様に勧めています。
きっと、その道は、人間の利益や栄誉にほど遠い門戸でしょう。そして、神の真実に生きる人は世俗的で、名誉や利益に富ん大ものではなく、例え、厳しくても、困難であっても、神との対話が出来る厳しい道を選びなさいと勧めています。