「実によって木を知る」
2016年11月06日 第1主日礼拝説教 降誕前第9主日
説教題:「実によって木を知る」
聖書:新約聖書 マタイによる福音書第7章15~20節(12㌻)
「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 」
「神は諦めずに語り続ける」
【実によって木を知る】
イエスの言う「偽善者」とは、誰のことでしょうか。教会内での偽りの指導者たちのことでしょうか。しかし、イエスの時代の宗教的な指導者であると考えるのが自然ではないでしょうか。彼らは立派なことを説いていますが、実態は非常に貪欲な狼です。わたしたちは、宗教における真実を鋭く見分ける知恵が必要があります。
1.悪人が、自ら悪人だという事はまずないでしょう。偽善者も自らを偽善者だとは言わないと思います。逆に、偽善者ほど自ら善人としてふるまうものです。悪人が義人ぶる事を「羊の皮を着た狼」と言うのでしょう。ここで「羊」とは、色々な見解がありますが、神の民と考えるのが妥当でしょう。現代風に言えば、クリスチャンの事です。表向きはイエス様を信じている様にふるまうのですが、知識が有っても心の底から、救い主イエス・キリストを信じ、180度の改心を経験したことがない人です。改心がないという事は現実にはまだサタンの手の内にあるという事であり、正しくはキリスト者ではないと思います。この様な人をどのように見分けるかは信仰者にとって重要なテーマであり、み名のゆえに騙されてはならないという事を常に自覚しておかなければならないという事ではないでしょうか。偽善者に食い物にされることは主の御心ではないでしょう。
2. 次に、偽善者をどのように見分ける事が出来るかという事を知らなければなりません。皆さん柿はお好きですか。柿は渋柿と甘がきが有ります。ところで、皆さんはこれを見分ける事が出来ますか。なかなか難しいです。 同じ様に、人間を見分ける事は、柿以上に難しいのです。 一見難しそうに見えても優しい人もあり、一見優しそうでも難しい場合があります。柿はかじってみて初めて、渋いか甘いか分かるでしょう。人間でも同じことです。昔から子を見れば親が分かり、親を見れば子がわかると言われています。 譬えにある様に木は実を見れば何の木かわかります。柿の木は柿の実を、クルミの木はクルミの実を、リンゴの木はリンゴの実をむすぶのです。実のなる前は何の気かわからなくても実を見れば何の木か間違えることなくわかります。 人間はどうでしょうか。人間は自分中心に自己中心になりやすいのですが、義人は自分の為に働くのではなく、人のために働き、愛によって人に仕える人です。宗教を利用したり隣人を利用したりしません。しかし、偽善者は全てを自分のために行動します。教会の内部においても、派閥を作ったり自分の利益を求めたりする人が、ないとは言えません。ままあるものです。
3. 最も気をつけねばならないのは、表面上の熱心さです。一見、熱心に見えても邪な目的をもって時が来るまで羊の皮をかぶる事があります。偽善者は時が来れば豹変して神の僕である羊、クリスチャンを食い物にして時には教会を乗っ取る人さえあるくらいです。彼らもはじめは優しい羊のように振舞っていた人々です。時が来て豹変した人です。彼らは常に「主よ、主よ」と祈りをもって熱心さを印象付けます。人々の信頼が絶頂に達した時、豹変します。
これらの事を見やぶる事が出来るのは、偽預言者の周辺を良く知る事ではないでしょうか。その人の表面ではなく内面を知る事が出来るように祈り求めて、訓練する事が求められるのではないでしょうか。キリスト者は、キリスト者を生み出す事を忘れてはなりません。 祈りましょう。