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2016年11月27日 第4主日礼拝説教 待降節第4主日

説教題:「ただ主だけがご存知です」

聖書:新約聖書 マタイによる福音書第24章36~44節(48㌻)

   旧約聖書 イザヤ書第2章1~5節(1063㌻)

神は諦めずに語り続ける」

【ただ主だけがご存知です】

おはようございます。今日から、12月24日までの4週間をキリスト教会ではイエスキリストの降誕を祝う時として待降節と呼んでいます。誕生日を待つ子供のようなそわそわとした期待を込めた日々を送るのです。でも、ただ漠然としてキリストの誕生日を待つのではありません。

今思えば、キリストは唯々私たちの罪を贖うために来られたのであり、命の恩人と言う事です。全ての人間は、善悪をわきまえています。ですから、自分が悪い事をした事は自覚しています。

その罪の自覚がどうして備わっているのか明確には理解出来ないかもしれませんが。人間は教えられなくても良い事と悪い事をわきまえています。これは、まさに神が私たちを創造されたという証明ではないでしょうか。堕落したとは言え、神が創造された当時の性質が残っています。罪の赦しを待ち望むのでなければ、神仏に頼って自分の救いを求める事はないでしょう。

創造主を知らない人は、自分の罪を棚に上げて他人の罪を責めがちです。そして、悪い事をすると絶対者に罰せられると信じています。何よりも地獄の底に落ちないようにしてほしいと願って居ます。然しながら、悔い改めを説かれる創造主の存在と教えを知りません。救いの教えを全く理解していないのが現実です。

ですから、創造の主が言われる最後の審判の時の備えは出来て居ません。それにしても、自分が誰かに裁かれないようにとは願って居ます。こんなことで主の審判を免れる事は出来ません。恐れを抱くには抱くのですが審判への備えは出来ていません。

私達、クリスチャンは、そうであってはなりません。日頃の生活の中で、審判への備えは欠かせないものです。人生はこの審判に備えるための準備の期間と考える事も出来ます。人生は神の国に相応しい者を完成させる時だとも言えるでしょう。色々な問題に直面し、解決し答えを出していく間に人間は成長し神の創造の時に限りなく近づき、主の目に「良い者」として受け入れられるのではないでしょうか。

最期の日は、その日を待ち望むすべての人を罪から完全に開放する時です。そして、信仰者全てが、その来臨が贖いの時であり、贖いが完成する時です。

しかしながら、何時主が来られるかは誰も知る事が出来ないのが現実です。それにしても、あなたが、わたしが、救われたたいと望んでいなければ問題は別です。

キリストを信じるものは最後の日を恐れませんが、私たちの信仰生活に偽りが有ってはなりません。罪から本当に開放されたいと思っていない人は、罪から解放されたいと願って居ても、きっと、審判の日を信じていないでしょう。日頃、主のみ名を唱え、表面を繕って居たとしてもその内面は偽善に満ちているかもしれません。人前では、悪い事をするのに躊躇しても、罪を重ねるのに躊躇しないでしょう。

信じる者達はその証拠として、心の内にある光を闇に覆われないように、外部に照らし続けなくてはなりません。キリスト者が光の子と呼ばれる所以です。最後の審判の日を、罪からの解放が完成する日とする私たちは、来臨を楽しみにして待ち、罪と最後の審判に対する恐れを除かねばなりません。

その罪から解放されるという私たちの願いを真実にまた熱心に持ち続けなければならないでしょう。決し疑ってはなりません。そうするならば、ただ確信をもってその日を待つだけでなく、大きなよろこびと、熱心な希望をもって、それを祈り求める事が出来るようになるでしょうか。主がいつ来られても良いのです。継続して待ち続ける事が出来ているからです。

この様な生き方の中に、私たちはこの世に平和をもたらすための行為を絶えることなく続けなくてはならないのです。

「主が再び来られる時」を知って居るのは、主のみだという事を忘れてはなりません。

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