「主は来ませり」
2016年12月18日 第2主日礼拝説教 待降節第4主日
説教題 「主は来ませり」
聖書 新約聖書 ヨハネによる福音書第1章14~18節(163㌻) 説教者 山路進牧師
聖書
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
「神は諦めずに語り続ける」
【主は来ませり】
今朝、2016年のクリスマスを心から祝いましょう。
今日は、神の子、救い主イェス・キリストが此の世に誕生された記念すべき日です。
世界は混乱し、弱い者が虐げられています。主イェス・キリストはその様な人々を助ける為に来られたのです。イェス様の生涯をよく見ると、一般の人から見捨てられている様な人々に近づき、慰めたり励ましたりされました。当時としては、社会から相手にされないような人々に特に近づかれました。ですから、社会的な地位にある人々からは逆に軽蔑されたのです。なんだ、イェスという奴は、悪い奴らとしか付き合えないのか、変な奴としか付き合えないのか、変人で非社会的で、不安分子ではないかと軽蔑されたのです。
でも社会的に虐げられている人は、イェス様の助けによって自分を虐げている人々への憎しみから解放されたのです。その結果、彼らはイェス様の言葉に忠実に生きる事ができる様になり人から軽蔑されても精神的には人を恨むことをしたり、争いをしたリストことがなくなり、日々、心豊かな生き方ができるようになったのです。イェスはこの様に、物質的な豊かさではなく、魂の豊かさを人々に与える為にこの様に来られたのです。
考え違いをしてはなりません。衣食住は私たち自身で十分賄う事が出来、豊かになることも出来ます。しかし、霊的な豊かさは物質とは異なり、人知では十分に満たすことはできません。
イェス様が此の世に来られたのは、ご自分に寄すがる人々に、平安と永遠の目標を持ち続ける為の知恵を与える為に来られたのです。ですから、イェスを信じている人は心がいつも満たされて、人々を陥としれたり、争いを起こしたり、人々を傷つけてたり、何よりも周りの人を不安に陥としれるようなことを決してしないのです。それは、自分自身が心に平安があるからではないでしょうか。
主イェス・キリストが此の世に来られたのは人々に平安を与える為であり、そして、私たちクリスチャンも、イェスと同じように、人々が平安を得られるようにあらゆる奉仕をする務めが与えられています。主イェスキリストが降誕された本当の目的は、人々に魂の救いと平安を与える為でした。
さあ、主は来られました。
私たちはその証人であります。