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「死と恐れに打ち勝つ力」

2020年4月12日 第2主日礼拝説教 イースター礼拝

説教題:「死と恐れに打ち勝つ力」

聖書:新約聖書 マタイによる福音書28章1〜10節(59㌻~)

説教者:伊豆 聖牧師

皆さん、おはようございます。このような状況下ではありますが、主の復活をお祝いすることが出来る事、そして皆さんと共に礼拝し、主を賛美することが出来る事を感謝いたします。また、この礼拝に集うことが出来ず、家におられる方々を憶えます。その方々ともこの主の復活の喜びを分かち合いたいと思います。

さて、先週はシュロの主日の礼拝でありました。民衆は主イェスを歓呼してエルサレムに迎え入れました。しかし、彼らは数日後、一変し、ある者はあざけり、またある者は罵倒し、数日前歓呼して迎え入れた主イェスを十字架につけ殺しました。人の心は葦のように揺れ動く弱いものだからですということを先週お話したと思います。

そして、その人の弱さを表すものとして恐れということがあるかと思います。恐れることとはなんでしょうか?辞書にはこうあります。

恐れること、恐怖、よくないことが起こるのではないかという不安です。恐れには様々な物があるとおもうのですが、その一つに未知のものに対する恐れがあると思います。

数日前なのですが、この地区の町内会の班長をしている方が訪ねてこられ、町内会に入っていただけないかというお話をされました。私が教会の方々と話してから決めますというと、何かおかしな物でもみるような表情をされ、でもここで住んでいますよねとおっしゃられました。もし、私が教会に派遣された牧師としてではなく、この地に引っ越してきたのであれば、一にも二にもなく町内会に入ったことでしょう。ですが、なぜ、町内会にはいるよう誘われるのでしょうか?もちろん、ゴミの当番、地域活動への参加などがあるのですが、やはり、ご近所の方々と知り合いになるためということだと思うのです。最近では引っ越してきてもご近所にご挨拶もせず、町内会にも入らない方もおられるみたいで、誰が引っ越してきたのかよくわからないということもあるようです。その事はその地域に住んでいる方にとっては不安です。もしかすると今度引っ越してこられた方はよくない人かもしれない。未知なものに対する恐れです。ですから町内会にはいり、知り合いになることでこの恐れを和らげようとするのだと思います。

本日の聖書箇所マタイによる福音書28章4節をごらんください。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」とあります。なぜ、番兵達はこのような状態になってしまったのでしょうか。それは彼らが未知なものを見たからです。この番兵達は主イェスの墓を見張っていました。

理由は前の章27章の62節から66節にかかれているのですが、祭司長とファリサイ派の人達が主イェスの弟子たちが主イェスの死体を盗み出し、復活したと言いふらすことを恐れたからです。彼らは総督ピラトに頼み、番兵をおいてもらいました。この番兵たちが未知なものを見た。大きな地震と天使です。その天使は空から降り、石を転がし、その上に座ったと28章2節にあり、その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったと3節にあります。この事に番兵は驚いたのです。人というものはやはり自分の理解できないものに恐怖を抱くものです。

このコロナウィルスの騒動に関してもそうではないでしょうか。初めは人から人への感染はないという話でしたが、後にそれはあるということが判明しました。検査をして、陰性だったにもかかわらず、後に陽性になる人々がいるということです。そして、今様々な治療薬が試されている段階ですが、決定的な治療薬がなく、このウィルスに感染すれば、自分の免疫力で治すしか方法がないということです。つまりこの病気は未知であり、具体的な対処法が存在しないということです。私達が恐れる理由です。

今日の聖書箇所に戻ります。マグダラのマリアともうひとりのマリア(ヤコブとヨセフの母マリア)は主イェスの墓に行き、先程の番兵たちが見た光景と同じ光景を見ました。多分、番兵たちと同じように恐怖したことでしょう。

しかし、天使は彼らにこう言います。「恐れるな」です。5節です。

さらに、天使は主イェスが復活なさり、ガリラヤへ彼の弟子たちより先に行かれることを弟子たちに告げなさいとその婦人たちに言われたと7節にあります。

その婦人たちは恐れながらも大いに喜び弟子たちのもとへこの素晴らしいニュースを伝えるため走っていったと8節にあります。恐れながらも喜びということですが、面白い表現です。恐れるということと喜ぶということがこの婦人たちの間で同時に起こっているのです。彼女たちは目の前に起こったこと、すなわち、天使が語ったこと、主イェスが死者の中から復活したことは理解できなかったでしょう。それは人の理解を超えたことであり、だからこそ恐れたに違いありません。しかし、彼女たちにはその恐れに勝る喜びがありました。それは主イェスが復活し、その主イェスにもう一度会えるということではないでしょうか。彼女たちの喜びはこの表現にあらわれているのではないでしょうか「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」

彼女たちは喜びに満たされ、早くこの良き知らせを弟子たちにつたえようとしたのです。

そして、彼女たちは弟子たちに知らせようと弟子たちの元へ駆けていく道すがら、主イェスに遭遇します。主イェスは彼女たちに「おはよう」と言います。何気ない言葉です。しかし、この何気ない言葉がどんなに彼女たちの慰めになり、喜びになったことでしょう。それは彼女たちの主イェスに対する態度で表されます。「婦人たちは近寄り、イェスの足を抱き、その前にひれ伏した」と9節にあります。彼女たちに対して、主イェスはこの言葉をいいます。「恐れるな」そして天使が婦人たちに告げた言葉と同様の言葉を告げます。「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。」

私達は今回のこのコロナの騒動を通じて学んでいることは私達にはまだまだ知らない事が多くあるということです。私達は知らないことを恐れ、知ろうとする。一昔前に比べるとインターネットの検索を使い様々なことを知ることが出来るようになりました。しかし、私達は何かを知ることによって何かを支配し、少しでも支配できないことがあると不安になってしまうのではないでしょうか。私達にはまだまだ支配出来ないものがあるということです。もちろん、私達は現実問題に対処しなければいけません。この病気に対する政府の様々な対策、薬の開発、個人レベルでの感染予防はしなければいけないと考えております。しかし、私達がすべてを支配することが出来ない、コントロールすることが出来ないと認める時にそこにイェス・キリストを見出すことが出来るのではないでしょうか。

主イェスもまた死に臨んで、神に訴え「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と言います。主イェスもまた死の前で苦しんだのです。しかし、主イェスは復活された。死を打ち破った。だからこそ、彼は死に臨んだときとは打って変わって穏やかに婦人たちに「おはよう」とあいさつされたのではないでしょうか。

私達がすべてのことをコントロールすることが出来るという思いをすてること、私達を主に明け渡すことが恐れをなくし、死を打ち破った主イェスに出会い、彼に連なるものとされる道ではないでしょうか?

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