「弟子たちの信仰」
2020年4月19日 第3主日礼拝説教
説教題:「弟子たちの信仰」
聖書:新約聖書 ヨハネによる福音書20章19〜31節(210㌻~)
説教者:伊豆 聖牧師
みなさん、おはようございます。本日は主が復活された日から数えて、一週間目となります。先週はイースター礼拝でした。マグダラのマリアともう一人のマリアが十字架の上で亡くなられた主イェスが埋められた墓に行ったが、そこは空だった。彼女らはそこで、天使と出会い、そして復活された主イェスと出会った。彼女らはこの事に恐れつつも喜びに満たされ、弟子たちにこのよき知らせを伝えようと出ていった。このことまで先週お話したと思います。
さて、その頃の弟子たちはどういう状態であったでしょう?本日の最初の聖書箇所19節の前半部分です。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」とあります。主イェス・キリストが生きて彼らと共にいた頃、彼らは生き生きとしておりました。時には弟子たちの間で誰が一番上かなどといった小さな争い、もしくは自分たちがいかに主イェスの教えを理解出来ない者たちであるかということを実感させられたことは数多くありました。
多くの弟子たちが失望し、彼らからはなれてしまったことや、パリサイ人、律法学者達と主イェスとの争いも弟子達は経験してきました。しかし、彼らは主イェスと共にこの地上で歩んだ時、伝道をしていたとき、喜びにみたされ、生きていました。
しかし、彼らのこの喜びに満たされた生活も主イェスの十字架での死で終わりを告げます。弟子たちは主イェスが逮捕され、十字架で死刑に処せられ、みんな散り散りに逃げ去ったのです。主イェスの弟子のペテロの例を見てみましょう。主イェスが祭司長やパリサイ人達に逮捕されたときです。ペテロは勇敢にも主イェスを彼らから守ろうとし、大祭司の手下に打ってかかりますが、主イェスはそのことをいさめます。そして主イェスは逮捕されます。主イェスが逮捕されてから、ペテロは主イェスが連れて行かれた大祭司の中庭に行くのです。もちろん、主イェスを心配してのことでしょう、しかも自分の素性を隠して。しかし、ペテロは3度、イェスの仲間であると言われ、3度そのことを否定します。マルコによる福音書14章66節から72節にその事が書かれています。71節にはこのようにさえ、書かれています。「ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。」とあります。これは大変なことであると私は思うのですね。なぜなら、かつて主イェスは山上の説教でこう言われたからです。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイによる福音書10:32−33節です。)そして、なによりもかつて先生といっていた彼の師である主イェスを裏切ってしまったわけです。ペテロは主イェスに愛された弟子であったと私は考えています。かつて、主イェスがペテロに主イェスが何者であるかと問いました。ペテロはこう答えたのです。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
それに対して主イェスはペテロにこう言われました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。よみのちからもこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
主イェスにここまで言っていただける弟子がいたでしょうか?私は記憶にありません。しかしその信頼されていたペテロが裏切ったのですからいわずもがなでしょう。弟子たちはみんな気をおとして、そしていつ彼らの師であるイェスと同じように自分たちが逮捕され、尋問され、殺されるのではないかとビクビクしていたのだと思います。
私達もまたこのような状態になる可能性があります。いや、言い換えたほうがいいかもしれません。しょっちゅう、なっています。それは洗礼を受けている、受けていないとか、クリスチャンになって何年、いや何十年であるとかに関係ありません。私達の人生には多くの障害が立ちはだかります。クリスチャンであるから、障害に遭わないというわけではないのです。
そして、私達はその障害や困難にあった時に動揺し、おびえてしまうのです。かれら弟子たちからしてもそうではないでしょうか。彼らは主イェスから直接指導をうけた弟子たちでした。使徒と呼ばれる人達ですが、この状態です。しかし彼らの姿は私達の姿なのです。
かつて、主イェスはからし種一つの信仰があれば、山を動かせると言われました。しかし、私達はそのからし種一つの信仰すらないのです。弟子たちはユダヤ人たちを恐れ、家の戸に鍵をかけていたと20章19節前半にありますが、これは実際にそうであったというだけでなく、彼らの心の状態です。恐れて、心の扉に鍵を掛けているのです。
しかし、そんな弟子たちの元に主イェスが現れます。家の戸などないように、鍵などないように、突然あらわれ、彼らの真ん中に立つのです。主イェスは実際にカギをかけた戸をすりぬけて現れただけでなく、彼らのカギをかけた心の戸をあたかもないようすり抜けてきたのです。そして彼らの心の中心に立ったのです。
その事は私達にも言えることではないでしょうか?私達にも不安、かたくなな心があります。今現在の状況がそうです。この状況を私達は恐れています。しかし、主イェスは私達のカギをかけた戸をすりぬけて真ん中に立たれるのです。
そして、主イェスは弟子たちにこういわれるのです。「あなたがたに平和があるように」ヨハネによる福音書20:19の後半部分です。さらに21節でも再度この「あなたがたに平和があるように」と言われます。更に続けて主イェスはこう言われます。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そして22節で「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でもあなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」とこう言われます。
かつて一緒に歩んだ弟子たち。しかし、自分が逮捕され、十字架で殺されると逃げ去り、家の戸にカギをかけ震えながら日々を生活している情けない弟子たち。そんな弟子たちに主イェスは平和を約束されただけでなく、ご自分の権威をさずけると約束されました。素晴らしいことではないでしょうか。
その場に居合わせた弟子達は信じたのですが、それでも信じない弟子がいました。それがディディモと呼ばれるトマスです。彼は主イェスが弟子たちの前に現れた時、居合わせなかったので、信じず、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったほどかたくなでした。しかし、主イェスは最初に弟子たちに現れてから8日後このトマスが一緒にいるとき、弟子たちの前に現れました。そして皮肉にもトマスにこう言われるのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹にいれなさい」と
トマスはその主の姿を見て信じました。
私達はちょっとしたことで逃げ出してしまい、家の戸にカギをかけブルブル震えている弟子たちのような、そしてかたくなでなかなか信じないような情けない存在だということです。トマスの頑なな態度に対して「信じない者ではなく、信じるものになりなさい」といい、さらに、「見ないのに信じる人は、幸いである」といわれます。このことこそが信仰ではないでしょうか?ヘブライ人への手紙11章1節にはこう書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」
私達もこの信仰を持つことができるのではないでしょうか。
なぜなら、私達は主イェスを実際に見ていないにもかかわらず、
こうして信じているのですから。