「回復」
2020年5月3日 第1主日礼拝
説教題:「回復」
聖書:旧約聖書 エレミヤ書 33章4〜14節(1240㌻~)
説教者:伊豆 聖牧師
回復とは何でしょうか?健康回復や経済回復など様々な状況で使われる言葉です。辞書にはこうあります。「一度うしなったものをとりもどすこと。もとのとおりになること」。では、預言者エレミヤの時代でこの「一度うしなったものをとりもどすこと。もとのとおりになること」とはどういうことでしょうか?それはユダ王国が本日の聖書箇所である4節から5節で語られている荒廃した状態から6節から14節までに語られている平和の状態になるということです。ですが、その前になぜユダ王国がこのように荒廃してしまったのかを話をしなければなりません。
ここに出てくるユダ王国という国はユダヤ人の国でありました。もともとはダビデ王、そして息子であるソロモン王が治めるイスラエル王国であったのですが、やがてイスラエル王国とユダ王国という2つの国に分裂します。やがて、イスラエル王国もユダ王国も主なる神から離れ、他の神々を礼拝し、国内に不正がはびこります。主なる神はこの状況を見て、たびたび、預言者を双方の国に送り、偶像礼拝をやめ、主なる神に立ち返り、不正をやめるよう王、祭司を始めとする民に、勧告します。しかし、彼らは聞き従わず、イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされます。そして、ユダ王国は紀元前586年に新バビロニア王国のネブカドレツァル王によって征服され、多くの民はバビロンに捕囚されました。このことにより、ユダヤ人の国であるイスラエル王国、ユダ王国、そして都市エルサレムは荒廃しました。
なぜ、主なる神は偶像礼拝と不正を怒られたのでしょうか?まず、偶像崇拝についてはこのユダ王国、イスラエル王国が成立するはるか以前に出エジプトという出来事がありました。それは先祖アブラハムの子孫であるユダヤ人達がエジプトで奴隷として扱われていた状況を主なる神がご覧になりました。そして、主なる神はユダヤ人たちに憐れみをおぼえ、また豊かな土地を与えるという彼らの先祖アブラハムとの約束を思い出し、彼らをエジプトから連れ出しました。いわば、神は彼らを奴隷の状態から開放したのです。神は民と契約を交わし、民は十戒というものを与えられます。十の戒め、つまり十の規則です。その第一の規則がこれです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらにつかえたりしてはならない。」
しかし、ユダ王国の民はこの規則に従わなかった。そのせいで、神はこの国を新バビロニア王国、ネブカドレツァル王の手に渡したのです。その事情は同じエレミヤ書の25:3-11に書かれております。たぶん、皆さんはこう思われているかもしれません。何だ、他の神様を拝んだくらいで怒り、国を滅ぼし、年を滅ぼし、災いを下すなんて、心の狭い神様じゃないか。果たして、そうでしょうか。主なる神はユダヤ人の先祖であるアブラハムを選び、祝福しました。そして、アブラハムは神に答え、神の御声に従いました。そこにあるのは神とアブラハムとの信頼関係です。また、神は奴隷状態のユダヤ人達をエジプトからよき土地に導き入れました。そして、そこに存在する物も神とこの民との信頼関係です。
しかしながら、この民は何度もこの信頼関係を壊してきました。私はユダ王国の民が何度も偶像に心を傾け、偶像を礼拝し、主なる神をないがしろにして来たと申し上げてきました。しかし、実際はこの国の成立以前からこの民は偶像礼拝をし、主なる神の怒りを引き起こしてきたのです。人間関係であっても信頼ということは重要だと考えているのですが、それが神との関係であるならなおさらではないでしょうか。そういう意味でユダ王国の民が犯し続けてきた偶像礼拝という罪は神がユダ王国をバビロンの王に渡し、荒廃させるに足る理由であると考えます。
さらに、ユダ王国には偶像礼拝以外にも不正がはびこっていました。エレミヤを通した主の言葉があります。エレミヤ書22:3−5「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。もし、あなたたちがこの言葉を熱心に行うならば、ダビデの王位に座る王たちは、車や馬に乗って、この宮殿の門から入ることができる、王も家臣も民も。しかし、もしこれらの言葉に聞き従わないならば、わたしは自らに誓って言う――と主は言われる――この宮殿は必ず廃墟となる。」
なぜ、主なる神はこのようなことを預言者の口を通しておっしゃられたのでしょうか?それはユダ王国国内にこのような不正がはびこっていたからではないでしょうか?そして結果としてユダ王国はバビロニアに滅ぼされ、預言は現実のものとなりました。都と宮殿は破壊され、死体に溢れました。
しかし、神は回復を宣言されます。6節〜7節です。「しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。」9節と11節は回復がさらに具体的です。「わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界のすべての国々が聞くとき、この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。」「しかし、やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と歌う声が聞こえるようになる。それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである。」
民は荒廃した都、捕囚とされ、異国につれていかれるという目の前のみじめな現実に立ちすくんでいます。わたしたちもまた同じです。つい数ヶ月前までは普通に職場に通い、自由に買い物をしていたのに、その日常ごく当たり前の出来事ができなくなってしまったのですから。多くの店は閉まり、食料品を取り扱うスーパーなどの店舗は開いていますが、人と人の距離を取ることを呼びかけるアナウンスが流れます。また駅でもそのようなアナウンスがながれ、わたしたちを憂鬱とさせます。そして、なによりもこの新型コロナウィルスの影響で礼拝や話し合いがきちんと開くことが出来ないことは教会にとって大きな痛手です。
しかし、神は回復を宣言されます。それはただ単なる日常生活の回復ではありません。それは神と私達との関係の回復です。8節を御覧ください。「わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。」また再度11節を見ていただきたいのです。感謝の供え物を主の神殿に持ってきて、彼もしくは彼女は主を賛美します。このことは彼もしくは彼女が他の神々ではなく、主を賛美するということであり、神と民との良い関係がそこに存在しているということではないでしょうか。私達の回復とは神との関係の回復があり、その後私達の日常生活の回復があると考えます。最後にエレミヤ書31:33-34をお読みいたします。
「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」