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「聖霊の実」

2020年5月10日 第2主日礼拝 

説教題:「聖霊の実」

聖書:新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 5章13〜25節(349㌻~)

説教者:伊豆 聖牧師

ガラテヤ書は使徒パウロが小アジア地区のガラテヤという地域のユダヤ人ではない異邦人のキリスト教共同体に宛てた手紙です。ですから、ガラテヤの信徒への手紙と言う名前が正式な名称です。パウロがここで、まず問題にしているのはガラテヤの信徒達が信仰による救いから律法による救いという考え方になってきてしまったということです。律法による救い、いわゆる律法主義という考え方はモーセの律法とそれを元にユダヤ教の教師(ラビ)達が作った多くの規則を守れば救われるという考え方です。この律法主義という考え方は主イェスが地上で伝道をしていたときからありまして、度々主イェスは律法主義を主張する律法学者・ファリサイ派の人達と対立しました。例えば、マタイによる福音書12章9節〜14節では、主イェスが片手の不自由な人を癒やされるのですが、その日が安息日であったため、ファリサイ派の人々が主イェスを非難しました。なぜなら、モーセの律法では安息日を守り、これを聖とせよとあり、人は安息日に労働してはならないとあったからです。ファリサイ派の人達は主イェスの行為が労働にあたるとし、非難しました。なぜなら、彼らは律法を守ることによる救いを信じており、主イェスの行為はこれを犯す事であったからです。ですが、主イェスは安息日に良いことをすることは正しいことであるとして、このファリサイ派の人々の考えを退けます。このことが、主イェスとファリサイ派の人々との間の対立を生み、結果として主イェスを十字架の死へと追いやる一つの原因となります。しかし主イェスはここで人が救われるのは律法によるのではないということを示されました。

主イェスの思いは使徒パウロにも受け継がれ、パウロは人が救われるのは律法の厳守(律法主義)によるのではなく、信仰によるものであると主張します。これを少し難しい言葉で申しますと、信仰義認といいます。つまり、人は主イェスが神であり、この方がその人のために死んで、その人の罪を贖っていただいたという信仰を持つことによって救われるという考え方なのです。この思いをもって使徒パウロはガラテヤの人達にキリスト・イェスの福音を述べ伝えました。この福音を受けたガラテヤの人達が集まってできた共同体がガラテヤの教会なのです。しかし、教会が出来て、パウロが他の地域の伝道のため、教会から離れると、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人達がこの教会にやってきました。この人達は、人が救われるためには律法を守らなければならない、そして割礼を受けなければならないと主張しました。主イェスが、そして使徒パウロが敵対した律法主義です。使徒パウロはモーセの律法を否定はしませんでしたが、あくまでもそれは信仰による救いという福音(主イェス)が現れるまでの養育係であったと主張します。(ガラテヤ3章24節)

パウロはさらに続けます。「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。」(ガラテヤ3章25節)

ですので、パウロはこのガラテヤの教会に入り込んできた律法主義、そしてこの律法主義を触れ回っている一派を非難し、そしてそれに従ってしまっているガラテヤの教会を非難し、なんとかパウロがこのガラテヤの教会に述べ伝えた福音に立ち返るようにこの手紙で言っている。彼はこの律法主義に生きることは奴隷として生きることであり、信仰に生きることはこの奴隷の軛から開放され、自由に生きることだと言っている。(ガラテヤ5章1節)

しかし、パウロはこの自由とはキリスト者の自由であってなにも好き勝手やっていいというわけではないということが、本日の聖書箇所の5章13節です。 

 「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」

前半部分は律法主義からの解放と信仰による救いです。しかし、後半部分は好き勝手やってしまうというような誤った自由の考え方に対するパウロの警告ではないでしょうか。そして、パウロは愛によって仕え合いなさいとコリントの信徒に推奨している。さらに続く、14節でパウロは「隣人を自分のように愛しなさい」というモーセの十戒を引き合いに出しています。私達は隣人を自分のようにあいしているだろうか。私達の言動は人を傷つけていないだろうか。私達は好き勝手やっていないだろうか。それは互いに仕え合うということから外れていないだろうか。

考えなければいけないと思います。

どうしたら、隣人を自分のように愛し、互いに仕え合うようにできるだろうかと考えた時、パウロはその答えを16節以下に示しています。霊の導きに従って歩むことです。パウロは霊に従って歩むことと肉に従って歩むことを対比させて、述べています。19節でパウロは肉の業として、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、などをあげています。他方パウロは霊の結ぶ実として愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を挙げます。私達は自分の心の中を吟味すべきときに来ているのではないでしょうか?例えば、私の心中は何に満たされているのか?愛、喜び、平和といった霊の実に満たされているのか?それとも肉の業である敵意、利己心、不和、仲間争いに満たされているか?もし、霊の実に満たされているのなら、それを成長させていただくよう神に祈ろうではありませんか?もし、肉の業にみたされているようなら、それを取り除いていただくよう神に祈ろうではありませんか?そこがスタートラインだと思います。

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