「召し出された者たち」
2020年5月17日 第3主日礼拝
説教題:「召し出された者たち」
聖書:新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章28〜39節(285㌻~)
説教者:伊豆 聖牧師
パウロはこの手紙の冒頭の挨拶をこのように始めます。
「キリスト・イェスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから、」(ローマ1:1)
そして、こう閉じます。「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イェス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(ローマ1:7)
両方の節にでてくる気になる言葉があります。それは「召され」という言葉です。この言葉に関連する「召し」、「召命」という言葉はよくこの聖書、キリスト教で使われます。新共同訳聖書の創世記12章1節の前の小見出しの部分にはこう書かれています。「アブラムの召命と移住」、出エジプト記の3章1節の同じく小見出しの部分にはこう書かれています。「モーセの召命」。また、私事で大変、恐縮なのですが、私がナザレン神学校に入学する時もこの「召し」、「召命」ということが問われました。この召命とはなんでしょうか?この一見、重たく聞こえる言葉ですが、辞書にはこう書かれています「ある使命を果たすよう神が呼びかけること。預言者や聖職への召命のほか、ルターの宗教改革以降は一般の職業にも言われる。召し出し。」
アブラハムは生まれ故郷から神による地上の民の祝福となるよう神に召し出され、モーセはイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から開放されるために召し出されました。私の場合はこのナザレン教団で牧師として召命を受け、牧師として、今ここ、浦和ナザレンキリスト教会の講壇に立っております。パウロの召命はどうだったでしょうか?彼は何の使命を神から託されたのでしょうか?「キリスト・イェスの僕、神の福音のために選び出され」(ローマ1:1)にあります。彼はキリスト・イェスの僕となるため、福音伝道のために神に召されたと言っています。5節に入ると、彼の福音伝道がさらに、具体的です。彼は異邦人に福音を伝えるために召されたと言っています。
しかし、この召命はなにか特定の役職を持った人たち、例えば、牧師、伝道師、もしくは先程挙げた聖書にでてくる特別な人達、例えば、アブラハム、モーセ、ヨシュアといった人達にだけ当てはまるのでしょうか?
6節を御覧ください。「イェス・キリストのものとなるよう召されたあなたがたもいるのです。」とパウロは言い、さらに7節で「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。」と続けます。つまり、異邦人であり、なにか特別な役職をもっていないローマの信徒たちに、あなた達も神に召されている、神に使命を与えられているとパウロは言っています。彼らの使命とはなにか。それはイェス・キリストのものとなる、聖なる者となることであったと思います。そして、ローマの信徒たちもまたイェス・キリストのもの、聖なる者であったとパウロは言っているのです。
そして、この事は今を生きるキリスト者にも言えることではないでしょうか。つまり、召命というものは牧師だけの専売特許ではなく、この浦和ナザレンキリスト教会の皆様も神に召され、イェス・キリストのもの、聖なる者となっていると私は確信しております。
では、本日の聖書箇所に入っていきたいと思います。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ 8:28)
パウロはここで神はご計画をもってわたしたちを召して、さらに一緒に働いていると言い、そしてさらに、全てのことが益となると言います。神のご計画とは何でしょうか?
それは29節、30節で述べられているように、神に召されたわたしたちを神の長子である主イェス・キリストに似たものとし、わたしたちを義とし、さらには栄光をお与えになることです。そして「万事が益となるよう共に働く」です。これは有名な表現で皆様の中には知っておられる方もいるかも知れません。わたしたちの周りの全ての出来事、全ての人、全ての状況がわたしたちの益となるとパウロは言います。
全てとは何でしょうか?それが良い事であれ、悪い事であれ、全てという事です。そして「益となる」です。この益とはなにもお金持ちになるとか、健康になるとかそういうことではないと考えております。私が先程申し上げた神の御計画である私達の中でキリスト・イェスが形作られ、キリスト・イェスに似たものとされるということが有益であるということだと言うことです。
そして良いことだけでなく、悪いこともまた有益であるとパウロは言います。良いことだけでなく、悪いことも有益であるなんてなにか納得できない思いがあります。しかし、私達の人生には良いことばかりではありません。嫌なこと、辛いことも多くあります。しかし、自分の人生を振り返った時、あの時あのつらい経験があったから、今の現実に耐えられるもしくはあのつらい経験が今の仕事の役に立っているということがあります。私もまた自分の人生を振り返った時、そういうことを思います。
パウロもまたローマ5:3-5でこう言っています。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
不謹慎かも知れませんが、この新型コロナウィルスもまたこの全てのことに入るのではないでしょうか?もちろん、私は具体的にこの事がどのように神の御計画である私達の中にキリストが作られるということに関わってくるかはわからないですが、しかし、私はこの事を受け入れつつ、神の御計画を信じつつ日々歩んで生きたいと考えております。
最後にパウロは私達をキリストの愛から切り離すものは何もなく、私達の勝利を確信していると力強く言っております。8:35「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」そして、37-39へと続きます。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イェスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
今、この新型コロナウィルスの影響で世界が大変な状態になっています。そして私達もこの現実に対処しなければいけません。
しかし、私達には主イェス・キリストがおります。大切なことは私達の中でキリスト・イェスが作り上げられることではないでしょうか。