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「弱さの中の力」

2020年5月24日 第4主日礼拝 

説教題:「弱さの中の力」

聖書:新約聖書 コリントの信徒への手紙 二 12章7〜10節(339㌻~)

説教者:伊豆 聖牧師

私達が日々生活をしていく時、様々なことを経験いたします。嬉しいこと、悲しいこと、困難なことです。私達は幸せを願います。私達は人生がいつも嬉しいことで満たされることを願うのですが、必ずと言っていいほど、厄介事、困難が私達の人生に立ち塞がります。キリストを信じたクリスチャンだから、私達は困難から自由であるということではないのです。それは、この新型コロナウィルスの影響のこともそうであります。キリスト・イェスを信じたクリスチャンだからといって、感染するかも知れない、させるかも知れないといったリスク、そしてこの影響による生活の不自由さから逃れることは出来ません。

使徒パウロは彼が経験した困難を「とげ」と言いました。

さらに、彼はその「とげ」を「思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」と言っています。このパウロが言う「とげ」とはどのような物だったのでしょうか?一説では、目の病気といった身体的なものであったと言われていますが、はっきりとはしていません。

はっきりしていることはそれがパウロを悩ます困難であったということです。そして、それは「思い上がることのないように」彼に与えられた「とげ」でありました。どこから、この「思い上がり」というものが出てきたのでしょうか?それはパウロが神に見せられた素晴らしい霊的経験であったと思われます。それは本日の聖書箇所の前の節2コリントの12章1節から5節にあります。パウロはこの霊的経験をした人物を2節で「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、」と言い、また4節で「彼は楽園にまで引き上げられ、」と言い、この人物を自分とは違う第三者であるかのように表現するのですが、パウロ自身がこの人物であると言われています。つまり、パウロは神から素晴らしい霊的経験を与えられ、高揚した。神はパウロの高揚が高ぶり、例えば他の人を見下すといった傲慢さにつながるのではないかと考えこのとげを与えたのだとパウロは言っています。

このことに似ていると私が思うのは旧約聖書の「ヨブ記」です。

ここに出てくるヨブという人物は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」とあります。(ヨブ記1:1)さらに彼と彼の家族は経済的に裕福であったと3節に書かれています。しかし、神はサタンにヨブに災難を与えることを許可し、ヨブは様々な困難に直面します。それらは彼もしくは彼の家族が持っている財産が奪われるといった経済的な事から彼が皮膚病といった病気まで様々でした。やがてヨブは神によって病気が癒やされ、彼が以前もっていた財産も2倍にして彼に戻されたという話です。ヨブがこのような困難に直面した理由は彼の持っていた経済的豊かさが高ぶりを生むのではないかと神に思われたのかもしれません。私達もまたこの事を重く受け止めなければいけないのではないでしょうか?例えば、自分の人生がうまくいっている、自分の思い通りに事が進んでいると思った時、思わないところで足をすくわれる経験を皆さんは経験したことがあるかと思います。そのような時、自分の心の状態を点検してみたらいかがでしょうか?自分の中に傲慢さはないだろうか、高ぶりはないだろうかとチェックし、神に祈り、神の御心を求めることは重要なことだと私は考えます。ただ単に、物事順風満帆にいっていても、落とし穴があるので注意するようにといったような世間一般のなにか、ことわざめいたことで物事をとらえるのと自分の心を点検し、神と向き合うということは天と地の差、雲泥の差があるからです。自分と向き合い、神と向き合うことによってクリスチャン人生がスタートするのです。

さて、パウロはどうだったでしょうか?パウロは神の御心をわかっていたでしょうか?彼はわかっていました。彼はあの霊的経験を通して、高揚してはいましたが、高ぶっていませんでした。しかし、神は彼が高ぶらないようにとげを与えられたこともパウロはわかっていました。しかし、彼もやはり人間でした。弱さがありました。そして、その弱さは私達も持っているものです。だから、彼は3度このとげを抜いてくれるよう主に願いました。私達も同じです。私達もまた困難、厄介事があれば解決してほしい、厄介な人であれば、どこかへ行ってほしいと願うものです。しかし、そういう時ほど、困難、厄介事、厄介な人は私達の前に留まり続けるものです。

パウロはこの人間的な願い事、つまり彼に刺さっているとげを抜いてほしいと願った後、神から真理を示されます。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」 (2コリント12:9)

どういうことでしょうか?

これはパウロが人間的に弱い時ほど、神により頼むことにより、神の力が発揮されるということではないでしょうか。つまり、私達は普段生きている時、自分の能力を頼みとします。それは学力、経済力、社会的地位と様々です。神様が必要ではないのです。そして取ってつけたように、お題目のように神様、神様といいます。心のなかでは自分の能力を頼みとしているにも関わらず。しかし、私達が本当に困った時、自分が本当に弱い時ほど神により頼む、もちろんこれは困ったときの神頼みといった安易なものではないのですが、このことが重要です。自分が弱い、哀れな存在だと認めることが神により頼むというクリスチャンの姿勢になるのではないでしょうか。パウロはこの事をとげという彼にとって辛い、苦しい経験を通して学びました。そして、「弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています」(2コリント12:10)とまで彼は言っています。私達はいまだ自分の能力を頼みとしていませんか?私達のとげはなんでしょうか?私達はキリストに従うと口では言っていても、この世に従ってはいませんか?私達の心の中を探るときだと思います。

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