「偶像を捨てよ」
2020年6月7日 6月第1主日礼拝
説教題:「偶像を捨てよ」
聖書:旧約聖書 列王記上18章21-24節(563㌻~)
新約聖書 マルコによる福音書10章17-22節(81㌻~)
ローマの信徒への手紙6章15-23節(281㌻~)
説教者:伊豆 聖牧師
預言者エリヤが活躍していた当時のイスラエル王国は偶像崇拝の罪に陥っていました。国民は彼らの先祖をエジプトの奴隷の状態から開放し、豊かなカナンの土地に導き入れた主なる神を捨て異邦の神であるバアルやアシラに仕えました。その国の当時の王アハブとその妻イザベルが国民をそのようにさせてしまいました。彼らがいかに主なる神の前に悪を行ったかは本日の最初の聖書箇所の前、列王記上16:30-33に書いてあります。こうした偶像崇拝に立ち向かうために神に選ばれた人物が預言者エリヤです。預言者エリヤはイスラエルの王アハブに「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」(列王記上17:1)と告げました。神のイスラエルへの罰であり、預言者エリヤの最初の偶像礼拝との対決でありました。
この雨が降らない状態は3年ほど続き、このことによる飢饉がサマリアをひどく襲っていました。そんな中、主なる神の言葉が預言者エリヤに臨みます。それは「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる。」(列王記上18:1)です。預言者エリヤとアハブとの、偶像礼拝との2度目の対決と飢饉の終わりを告げる神の宣言です。
エリヤは民にこの様に言います。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え」(列王記上18:21)。
本日の最初の聖書箇所です。この後、更にエリヤはバアルの預言者と対決します。対決方法は雄牛を2頭、生け贄として用意し、エリヤとバアルの預言者がそれぞれの神に呼ばわり、火でその生け贄を焼き尽くす神を本当の神とするというものでありました。このことは本日の最初の聖書箇所の列王記18:22-24に書かれています。
結果として、バアルの預言者の呼びかけにバアルは答えず、エリヤは彼らを馬鹿にしてこう言います。「大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。」(列王記上18:27)
その後、エリヤは主なる神に呼ばわり、神はエリヤの呼びかけに応え、生け贄を焼き尽くした。それを見ていた民は主が神であると認め、エリヤは民にバアルの預言者を捕らえさせ、殺させました。エリヤはこの場ではバアルの預言者達に打ち勝ち、偶像をその民の心から取り除きました。
今を生きる私達にも様々な偶像があります。名誉欲、プライド、知識、学歴、仕事、金銭など様々です。私達はそれらを誇りに、そして頼りにしてしまい、神から離れてしまいがちです。それらの中で金銭が挙げられます。本日の第2の聖書箇所のマルコによる福音書10:17-22にその事が書かれています。
ここには金持ちの男が出てきます。彼は主イェスに走り寄り、こう尋ねます。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(マルコによる福音書10:17)主イェスは彼にモーセの十戒に基づく掟、すなわち「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」ということを知っているはずだと答えられます。(19節)
主イェスのこの答えに対して、この金持ちの男はそれらの掟は小さい時から守ってきていると言うのですが、主イェスは彼にまだ欠けているものがあると言い、彼が持っている物を全部売って、貧しい人々に施しをし、主イェスに従って来なさいと彼に勧めます。(20-21節)しかし、この金持ちの男は主イェスの勧めを断ってしまいます。たしかに、主イェスのこの勧め、要求ということは私達にとって難しいです。私達の中で今持っている財産を全部売って教会に献金してくださいと言われても現実的に難しいと思われます。しかし、主イェスはこの金持ちの男が持っている金銭が彼の弱点であり、偶像であるということを指摘しているのではないでしょうか。金銭は私達が生活していく上で必要なものであり、大切なものです。私もこのように神学校で学び、卒業し、牧師としてこの教会に仕える前に様々な職業を経験しました。無職の状態で雇用保険を支給されて暮らしつつ、職業安定所に通い、職業訓練を受け、就職の面接を受けていた時期もあります。ですので、お金の大切さは痛いほどわかります。
しかし、同時にお金は毒にもなり、偶像になり得るのです。ある老齢の女性がおりました。その方はいわゆる芸人であり、お弟子さんもたくさんおりました。その方は裕福であったのですが、金銭に厳しい人でした。頼るものはお金だけそういう人でした。彼女はその芸事だけでなく、それ以外の、それこそ人には言えないような事をしてお金を稼いで生きてきました。彼女はそうして稼いだお金を株などに投資しており、メガバンクの大口の預金者でありました。彼女が彼女の娘と一緒に銀行に行き、取引を終え、車で帰る時には、銀行の副支店長と行員が表まで出てきて、直立不動でお辞儀をしたそうです。しかし、彼女は帰る車のなかで娘にこう言ったそうです。「あの人達は私に頭下げているんじゃないよ。お金に頭下げているんだよ」
そのような彼女でも、救いを求めていました。様々な仏教の宗派、キリスト教を経験し、亡くなられる最後にはキリストを受け入れ旅立っていきました。ここで需要なことは簡単にお金が私達の偶像になってしまうこと、私達がお金の奴隷になってしまうことです。この方も救われる前はお金を頼りに、お金だけを頼りに生きてきました。お金のためになんでもしてきました。その意味で彼女はお金の奴隷であったと言えます。また彼女が言ったように、彼女に、お金に頭を下げていた銀行員もまたお金の奴隷であったと言えます。たぶん、皆さんは今、私が話した例は極端すぎる、私はそんなお金の亡者ではないし、ましてやお金に頭をさげてなんていないと思ってらっしゃるかも知れません。しかし、私達は多かれ、少なかれ、そして知らず、知らずにそういった状況に陥っているのかも知れません。
本日の3番目の聖書箇所であるローマ信徒への手紙6章16節です。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」
パウロはここで二者択一を迫っています。罪に仕えるのか神に仕えるのか。それはエリヤが民にバアルに仕えるのか主に仕えるのかと迫ったのと同じことではないでしょうか?ヨシュアもまた彼がその生涯を閉じる前に民に偶像礼拝を取り除き、主に仕えなさいと言っています。そして二者択一を民に迫っています。ヨシュア記24章15節です。「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」今、決断の時ではないでしょうか?