top of page

「新生」

2020年6月14日 6月第2主日礼拝 

説教題:「新生」

聖書:新約聖書 ヨハネによる福音書3章1-21節(167㌻~)      

説教者:伊豆 聖牧師

私達は自分たちを取り巻く状況が変わればその状況に自分たちを多かれ、少なかれ、合わせていきます。自分たちの考え方、行動を変えていきます。学生が就職し、新社会人になる。今まで勤めていた会社から別の会社に転職する。結婚をする。状況は様々です。そして、この新型コロナウィルスの影響で私達の考え方、行動も変わりました。マスクを着用し、人と人との距離を取るソーシャルディスタンスに配慮し、スーパーなどのお店で働く方々はフェイスガードを付けて接客しています。この新型コロナウィルス前の生活にはすぐには戻れず、もしかするとこの様な生活が私達の間で定着するかもしれません。この新型コロナウィルスが終息してほしいという考え方からコロナと共に生きていくという考え方に人々の考え方がシフトしてきているのかもしれません。

もちろん、この様な生活の変化は私達にとって重要なことなのですが、本日の聖書箇所で主イェスがおっしゃられる「人が新たに生まれること」(新生)はそれ以上に重要な事だと考えています。3章1節から2節で、ファリサイ人であり、議員のニコデモという人が主イェスの所に来て、主イェスが他の誰にも出来ない奇跡を行っているので主イェスが神から来た教師であるということを主イェスに告げます。多くのファリサイ派の人達が主イェスに敵対していたのに対して、ニコデモは同じファリサイ派でしかも議員という特権階級の立場にいたにもかかわらず、主イェスの所に来たということは素晴らしいことではないかと思います。しかし、彼は何を求めて主イェスをたずねてきたのでしょうか。おそらく、彼は主イェスからの教えで自分を改善する必要があると考え、主イェスのところへきたのではないでしょうか?主イェスの答えはどうだったでしょうか?3節の「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」です。神の国を見るため(救われるため)には神の命によって生まれかえさせてもらわなければならないということです。ニコデモは主イェスの教えによって自分の知識で間違っているところを訂正し、神に対する知識を増やそうと考えていたのかも知れません。しかし、主イェスはそのようなことは重要ではなく、神によって自分が作り変えられ(新生)、救われることこそが重要であると言っているのです。

しかし、ニコデモは主イェスが言われるこの事を理解できずに4節で的外れなことを言います。主イェスが言われた神の霊によって自分を内側から霊的に変えてもらうことと実際に肉的にもう一度生まれることを取り違えます。主イェスはさらにこの事を続けます。5節では「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と主イェスは言われます。「水」とは何でしょうか?バプテスマ(洗礼)です。「霊」とは何でしょうか?神の霊です。つまり、神の国に入るためには洗礼と神の霊によって内的にそして霊的に生まれ変わらなければならないということです。変えていただかなければいけないということです。6節、8節で主イェスは肉と霊に関して話していきます。6節では「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。」と主イェスは言い、8節では「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われます。6節の「肉から生まれたものは肉である。」とは「ただびと」のことです。すなわち、キリストに出会い、救われる以前の状態の人のことです。「霊から生まれたものは霊である」とはキリストに出会い、神の霊によって内的に霊的に変えられ(新生)、救われた状態の人です。8節で主イェスはこの「ただびと」と「霊の人」との関係を風という表現を通して現しています。「ただびと」は霊の人を認識するのですが、理解することはできないということです。それは私達が風の音を聞き、風が吹いているなと認識するがそれがどこから来て、どこへ行くかを知らない事と一緒だと主イェスは言われるのです。赤ちゃんを考えてください。赤ちゃんは周りの音、周りの大人が話しかけてくる声に反応します。しかし、赤ちゃんはそれらの音、声を完全に理解してはいません。成長するに従って徐々にそれらを理解していきます。ニコデモは「ただびと」であり、赤ちゃんでありました。しかし、主イェスはこの「ただびと」であり、赤ちゃんである人が神の霊によって「霊の人」に変えられることを願っています。なぜなら、そのように変えられることによって、主イェスを受け入れ、救われるからです。そうすることで私達は神の国を見ることができ、神の国に入ることができるからです。使徒パウロはこの「新しく生まれること」(新生)がどれほど大切かを様々な箇所で言っております。「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(2コリント5:16-17)、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」。

私達の教会堂は新たになりました。すがすがしい気分です。それと同じ様に私達自身も神の霊によって内的に霊的に変えていただき、日々キリストに従って歩んで生きていけるようにしていただきたく思います。

Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic
bottom of page