「まことの礼拝」
2020年6月21日 6月第3主日礼拝
説教題:「まことの礼拝」
聖書:新約聖書 ヨハネによる福音書4章23-24節(169㌻~)
説教者:伊豆 聖牧師
この新型コロナウィルスの影響で私達の生活は変わり、私達の礼拝の仕方も変わって来ました。マスクをする、換気をする、消毒をする、そして、私達の教会は行いませんでしたが、インターネットを使った礼拝をするなどです。この変化の流れはもう変えようがないとは思いますが、私達の礼拝の中で大切で変わらない物があります。そのことを本日の聖書箇所は教えてくれるのではないかと思います。
話は主イェスとサマリアの女性が出会うところから始まります。主イェスと弟子たちは主イェスの故郷であるガリラヤへ戻るのですが、途中サマリアを通らなければなりませんでした。そして、サマリアのシカルという町に来られた時、弟子たちは食料の買い出しに行っていて、主イェスは一人、ヤコブの井戸と呼ばれる場所で休んでいました。そこへあるサマリアの女性が水をくみに来るのですが、主イェスは彼女に水を飲ませてくれるよう頼むのですが、彼女はユダヤ人とサマリア人とは交際しないとの理由で主イェスの頼みをやんわりと断ります。ユダヤ人とサマリア人との間には歴史的、宗教的、習慣的な対立があるからです。主イェスはこのサマリアの女性のやんわりした拒否に対して少しおかしなことを言うのです。ヨハネによる福音書4章の10節です。
「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
主イェスの答えでは彼女のほうから頼んで「生きた水」を主イェスから与えられると言うのです。
それに対してこの女性の答えは11節、12節に書かれています。
「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
それに対する主イェスの答えが13節に書かれています。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
11節、12節のサマリアの女性の発言と13節の主イェスの発言がかみ合っていないのです。なぜなら、サマリアの女性は実際の「水」のことを考えて話しています。しかし、主イェスが言われる「生きた水」とは主イェスの教え、もしくは主イェスの存在そのものだからです。いわゆるたとえです。主イェスは度々たとえで真理を話されます。同じヨハネによる福音書6章35節で主イェスはこう言われました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない。」
しかし、主イェスのたとえは人々に理解されづらく、誤解、反発を招きました。例えば、この6章35節の「命のパン」の話をした後多くの弟子たちがこの教えに反発し、主イェスを離れていきました。またこの前の説教「新生」でお話したニコデモも主イェスが言われた「霊的に内的に新しく生まれること」を「実際にもう一度生まれること」と勘違いしてしまいました。
同じ様にこのサマリアの女性も主イェスの言われる「生きた水」を勘違いしているのですが、勘違いしつつも、わからないながらもその「生きた水」を求めています。ヨハネによる福音書4章15節にそのことが書かれています。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
しかし、主イェスはこの女性の間違いを直していきます。
サマリアの女性はこう言います。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(ヨハネによる福音書 4:20)
しかし、主イェスは21節でこう言われます。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。」
「わたしを信じなさい」とは主イェスを信じなさいということです。そして「この山でもないエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」とは山やエルサレムという場所が聖なる場所として絶対に必要ということではないということではないでしょうか。肝心なことは主イェスを信じ、主イェスの教えを水としてパンとして養われることだと思います。
この新型コロナウィルスの影響で多くのキリスト者の方々が教会に集まることが出来なかった。インターネットを使って礼拝に参加することしか出来なかった方々も大勢いたと思います。しかし、大切なことは場所ではなく、主イェスを求め、信じることではないでしょうか。主イェスを求め、信じることによって私達が霊的にそして内的に変えられる。そういった人々の群れが真理をもって神を礼拝することが出来ると私は考えています。それこそがまことの
礼拝です。