top of page
検索

「御言葉を聞くということ」

  • urawa-church
  • 2020年7月7日
  • 読了時間: 5分

2020年6月28日 6月第4主日礼拝 

説教題:「御言葉を聞くということ」

聖書:新約聖書 マタイによる福音書13章1-9節(24㌻~)      

説教者:伊豆 聖牧師

花を育てる、もしくは野菜や果物を育てるということは大変根気のいる作業だと思います。まず、初めに種を植え、そして水や肥料などをやり、面倒を見なければなりません。大雨や台風といった自然災害のことも考えなければなりません。もし、これら自然災害が花や農作物を襲えばアウトです。花屋さんや農家の皆さんはこれらのことに気が気ではないでしょう。花が咲き、農作物が実り、これらのものを商品として出荷するため、彼らは大変な苦労をしなければならない。実際に駄目になる商品もあると思います。私は花屋さんでもなければ、農家の出身でもないので、あくまでも想像でこの事を話しています。しかし、私は教会の外に新しく芝を植え、朝、芝に水をやり、雑草を抜くことで少しでも花屋さんや農家の皆さんのご苦労をわかる気がします。

本日の聖書箇所で、主イェスは種を蒔く人のたとえを話され、蒔かれた種の4つの例を挙げます。最初の例は道端に落ちた種です。その種は鳥が来て食べてしまいました。(マタイ13:4)花の種であれ、農作物の種であれ、道端に落ちてしまえば、それらの種は芽を出す、さらに言えば花を咲かせ、実をつける可能性は限りなくゼロに近いですし、商品となる前に種として鳥のえさになってしまってもしょうがないと思うのです。

第2の例は石だらけで土の少ない所に落ちた種です。(マタイ13:5)この前、芝を植えた時の教会の土を思い出させます。石はあまりなかったのですが、土が粘土質で石の様なかたい土がごろごろありまして、芝を植えるのにものすごい苦労を私もさせられました。そういう土壌ですので、植えた芝が根付くかどうか私も土肥先生も心配しております。

聖書にはこう書かれています。種は土が浅いのですぐ芽を出したのですが、根がないので、太陽が昇ると焼けて枯れてしまった。(マタイ13:5-6)

第3の例は茨の中に落ちた種です。そこでは茨がその種が芽を出し成長することを妨げました。(マタイ13:7)

最後の例は種が良い土地に落ち、実を結んで、百倍、六十倍、三十倍になったということです。(マタイ13:8)

最後の例以外は道端といった土壌が悪かったり、茨が生えているといった環境が悪かったり、種が根付かず、太陽に焼かれ枯れてしまうなどして実がならなかったと主イェスは言われています。

もちろん、これはたとえです。このたとえの解説は主イェスご自身がマタイの13:19から22でしております。種とは御言葉です。第一の例は道端に蒔かれた種です。道端とは道に近い場所です。道とは人々が常日頃歩き、そこは踏み固められていきます。当然のことながら、その道にちかい道端に落ちた種が芽を出し、成長し、実がなる可能性はありません。それは、御言葉を聞いても世間一般に合わせて、埋もれてしまうキリスト者を示しているのではないかと考えております。例えば、私は洗礼を受け、何年間もクリスチャン生活をされている教会役員の方を知っているのですが、その方がこう言われるのを聞いたことがあります。「私は普通の人と同じだと思いますよ。」もちろん、私達キリスト者がキリスト者以外の方々に比べて偉いとか何か人格的に優れているなどといった上から目線をしたいというのではありませんが、私達は同時に世の人とは違わなければいけないと思います。もし、それを忘れ、この世の中に埋もれてしまうのであれば、御言葉を悟ることができず、この御言葉は悪い者すなわちサタンに取り去られてしまいます。そして、あとに残るのはこの世の一般の人と同じ様に生きる生き方ではないでしょうか。

次に主イェスは石だらけの場所に落ちた種について説明します。20-21節です。御言葉を喜んで受け入れるが、自分の中に根がないので、艱難や迫害が自分の身に及ぶと御言葉を放り出してしまう人のことです。キーワードは根です。太陽の熱はまだ根づいていない種を干からびさせます。しかし、いったん種が根付くと太陽の熱はその作物を成長と成熟を促すものになります。作物と同じ様に人にも言えるのではないでしょうか。根がないとは根拠がない、よりどころがない、確かなものがないと辞書にあります。キリスト者でいうところの根拠とは何でしょうか?信仰だと私は思います。信仰という確たる根を持っていないとこの世で苦しいことが自分の身に起こった時に、御言葉を放り投げてしまうと主イェスは言っているのではないでしょうか?逆に言えば私達キリスト者は信仰という確たる根をもっていれば、この世での苦しみを耐えることができる、いやそれを通して成長できるのではないでしょうか?

パウロはローマ信徒への手紙5:2-6「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

ですので、信仰を持って歩んでいこうではありませんか。

次に主イェスは茨の中に蒔かれた種の説明をします。マタイ13:22です。茨の中に蒔かれた種とは世の思い煩いや富の誘惑に陥り、その人の中で御言葉がいきず、結果としてその人は成長しないことを指します。以前お話した金持ちの青年のことを思い出してください。彼もまた小さい時から律法を守ってきましたが、主イェスに「持ち物を全部売って従ってきなさい」と言われた時、従うことができませんでした。

最後に主イェスは御言葉を聞いて悟る人の事を13:23で述べられます。この様な人は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶと主イェスは言われます。御言葉を聞くということはただ単に聞くということではないのです。御言葉を聞くということは聞いて悟ることであり、その人のなかで御言葉が与えた実がそれぞれに応じて成長することを意味します。先週、サマリアの女性の所でお話したように主イェスが話される御言葉はその人の中で泉となり、永遠の命に至る水になりえます。しかし、その御言葉を受け取る私達がしっかり受け止め、聞いて悟らなければ、その水は枯れます。種は奪われ、成長せず、枯れます。

どうしたらよいのでしょうか?主イェスが言われた実を結ばない種の3つの例を検証することです。そうして、信仰と聖霊による御言葉の理解を主に祈ることではないでしょうか?

 
 
 

最新記事

すべて表示
「悪と戦うキリスト」

2025年3月23日 受難節第3主日 説教題:「悪と戦うキリスト」 聖書 : マタイによる福音書 12章22-32節(22㌻)​​​​​ 説教者:伊豆 聖牧師  昔からあったことではあるとは思うのですが、誹謗中傷が増えてきているのではないかと感じています。前から申し上げてい...

 
 
 
「荒れ野の誘惑」

2025年3月16日 受難節第2主日 説教題:「荒れ野の誘惑」 聖書 : マタイによる福音書 4章1-11節(4㌻)​​​​​ 説教者:伊豆 聖牧師  皆さん先週の礼拝は如何でしたでしょうか?皆さんにとって初めてのインターネット、ユーチューブでの礼拝出席であったと思います。...

 
 
 
「奇跡を行うキリスト」

2025年3月2日 公現後第8主日 説教題:「奇跡を行うキリスト」 聖書 : マタイによる福音書 14章22-33節(28㌻)​​​​​ 説教者:伊豆 聖牧師  主イエスがこの地上で行われた奇跡、御業というものは様々なものがありました。多くの場合は病人をお癒やしになられたり...

 
 
 
Recent Posts
Search By Tags
Follow Us
  • Facebook Classic
  • Twitter Classic

Copyright © 2025 浦和キリスト教会 All Rights Reserved.

このホームページサイトで使用しております聖書は全て、財団法人「日本聖書協会」発行の『聖書 新共同訳聖書』より引用させていただいております。

聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会(c)、 日本聖書協会 東京 1987,1988

bottom of page