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「律法の完成」

2020年7月5日 7月第1主日礼拝 

説教題:「律法の完成」

聖書:新約聖書 マタイによる福音書5章17-20節(7㌻~)      

説教者:伊豆 聖牧師

私達が生活しているこの日常で法律は重要です。普段、私達はそれほど、そのことを意識してはいないのですが、折りに触れ、そのことを考えさせられます。例えば、私は、この教会に遣わされるにあたり、以前私が神学生として住んでいたナザレンの神学生寮のある東京都目黒区から住民票を抜き、ここ埼玉県さいたま市南区に住民票を入れなければなりませんでした。その時、この教会の建物が新築で、そのことを役所に申し出ていなかったと言われ、この建物自体が以前の住所ではなく、住所不定だと言われました。ですので、改めてこの建物の住所を設定し、その住所に私の住所を移動させました。それだけでなく、私がこの教会の代表役員になるということで、様々な書類を法務局という所に提出しなければなりませんでした。わずらわしいですし、もう少し簡単にできないものかというのが私の正直な感想です。しかし、これらの手続きは法律に基づいてのことだと思いますし、これらがないと不正がはびこり、社会がうまく機能しなくなると思いますので、致し方ないのだと思います。また、正式な法律に基づいてのことではないのですが、最近の新型コロナウィルスの影響で外出の際のマスク着用、咳エチケット、社会的距離の確保、手の消毒などはしなければならない事として社会に定着しつつあります。私はわずらわしさを感じつつ、これらの事も感染拡大防止のため、そしてそのことによって社会が正常に回るために必要な処置として受け入れております。

本日の最初の聖書箇所であるマタイによる福音書5章17節で律法と預言者という言葉がでてきます。まず、律法とはなんでしょうか?それは神がモーセを通してイスラエルの民に与えた10の法律(十戒)(出エジプト20:3-17)とそれに付随する契約(出エジプト20:22-23:33)です。これらの律法は今私達の社会が正常に回るために必要な側面(社会正義や公正さ、道徳的な事)を持っているのですが、この律法の中で一番大切なことは神に対してイスラエルの民が誠実なことであり、神とイスラエルの民との良好な関係が出発点として挙げられています。第一の戒めである「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト20:3)を挙げておきます。

預言者とはなんでしょうか?旧約聖書時代の預言者のことです。エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミア、エゼキエルといった人物です。民は神が彼らに与えた律法に従って歩まなかった。彼らは神から離れ偶像に従い、国内には不正が満ちあふれていた。つまり、神との関係も社会正義も破綻していた。そのことを非難し、民を神へ立ち返らせ、国に社会正義を取り戻すために神から遣わされた人物達が預言者です。律法も預言者も神と民との正しい関係を築き、社会に正義、公正、平和をもたらすものであった。

しかし、律法は破られ、多くの預言者の言葉は民に無視され、主イェスが地上で生きておられた時代には律法から派生した多くの形ばかりの律法・慣習が人々をしばっていました。

主イェスはこの形ばかりの律法・慣習から人々を解放し、人々に真実と命を得させるために地上に来られました。主イェスがこの地上で伝道をなさっておられた時、ファリサイ派の人々や律法学者との間で論争が度々おこりました。主イェスが安息日に会堂で片手の不自由な人の手を癒やされたことに対するファリサイ派の人々の主イェスへの非難(マタイによる福音書12:10)などです。ファリサイ派の人々は安息日に働いてはいけないと律法に書いてあるにもかかわらず、主イェスは人を癒やすという仕事をなさったと非難したのです。しかし、主イェスはこう言われます。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」(マタイ12:11-12)

律法では安息日に働くのは禁じられているので表面上、主イェスの行為は律法に違反している。しかし、人を癒やすという善行はたとえ安息日であっても神の御心にかなうことであると主イェスは言っている。つまり、人々の目から見ると表面上、主イェスの行為は律法を廃止しているように見えるが、律法を尊重している。なぜなら、律法は預言者と同様、人々に神の御心のなんたるかを理解させ、神へと導くものであるからです。そして、主イェスは神の御心を行ったのです。主イェスはこの山上の説教の後に表面上律法に反対する教えと奇跡を人々の前に示していきます。それは表面上の、形だけの律法主義から人々を解放し、人々を神へと向かわせる行為でした。そして、やがて迎える十字架でのご自身の死による人々の罪の贖いへと続いていきます。それが律法と預言者の預言の完成です。なぜなら、律法も預言者も主イェスを指し示しているからです。

主イェスは18節で「すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」と言い、さらには19節で「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」とまで言っています。それほどまでに、主イェスは律法を尊重している。それは主イェスがその律法を与えた父なる神を愛しているからに他ならないのではないでしょうか?では主イェスは何を問題視しているのでしょうか?それは形だけの律法もしくは律法主義と言われるものです。主イェスはファリサイ派の人々と律法学者を預言者イザヤの言葉を引用し、非難している。「『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」(マタイによる福音書15:8-9)

だからこそ、主イェスはこう言われます。「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」(マタイによる福音書5:20)私達の義はどのように律法学者の義やファリサイ派の人々の義に勝ることが出来るでしょうか?律法の完成者である主イェスを通してではないでしょうか?私達の心は神様に向いているでしょうか?それとも律法学者やファリサイ派の人々のように形ばかりの律法、慣習に向いているのではないでしょうか?であるならば、もう一度主イェスの方に、神の方に向おうではありませんか。

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