「へりくだること」
2020年7月12日 7月第2主日礼拝
説教題:「へりくだること」
聖書:旧約聖書 ダニエル書 5章7節(1388㌻)、9章18-19節(1396㌻)
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章8節(353㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私達の日本社会では敬語がよく使われます。丁寧語、尊敬語、謙譲語があり、日本語を学ぶ外国人にとって苦労をさせられる分野です。いや、外国人だけでなく、日本人にとっても苦労をさせられる分野で、日本人でもよく間違えてしまいます。また、日本人はよく人からほめられた時、「たいしたことないですよ」などと言った表面上否定的な言葉を言うのを目にします。これはほめた相手に対して謙遜を表していると思います。もし、「どうだ、すごいでしょう」などと言ったら、大変です。言った人は「傲慢な人」というレッテルを貼られてしまい、学校、近所、会社などで孤立してしまうかもしれません。私は人から褒められた時、「ありがとうございます。」と言ったほうが良いと思うのです。
私が一時期アメリカにおりました時、アメリカ人が人から褒められた時、そのように答えるのを多く目にしました。この答えならあまり人に「傲慢な人」という印象を与えないですむのではないかと思うのです。ですが、この日本社会ではそれでも「傲慢」と思われるかもしれません。外国人や同じ日本人でも分かりづらい敬語が多く使われ、人からほめられた時、それを表面上否定することで相手への敬意を表す日本社会は表面上礼儀正しく、人に対して敬意にあふれた社会、へりくだりの社会に見えます。果たして本当にそうでしょうか?聖書ではよく「へりくだり」が神に受けいれられる態度であると言われます。逆に「高ぶり」は神にいなまれる態度であると言われます。マリアの賛歌にはこうあります。
「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(ルカによる福音書1:51-53)
聖書で言うところの「へりくだり」とはなんでしょうか?このことを本日の聖書箇所から学んでいきたいと思っております。本日の最初の聖書箇所ダニエル書5:7でバビロンの王ベルシャツァル王はバビロンの知者を呼び、褒美と引き換えにある文字を解読させようとします。その経緯は同じ章の1節〜6節に書かれています。彼の父であるネブカドネツァル王がユダ王国を征服したとき、その首都エルサレムにあった神殿の中にあった祭具を運びだし、バビロンに持ってきました。それらを息子であるこの王は持ち出し、宴会を開き、それらで酒を飲み偶像の神々をほめたたえました。その後、人の手の指が出て、壁に文字を書いたということです。この王は恐怖にかられ、7節にある発言をしたということです。
この王の神の祭具を宴会の酒を飲む食器に使い、偶像を崇める態度こそが「高ぶり」です。つまりこの王は神に対して高ぶったのです。自分は偉大なバビロンの王である、何者も恐れるものはないという態度です。この「高ぶり」にたいする神の審判が文字となって現れました。結局この王はバビロンのあらゆる知者を呼んだが、誰もこの文字を解読することが出来ず、最後に主なる神の霊に満たされたダニエルが王の前に召し出され、この文字を解読します。
26節〜28節に書かれているのですが、神はこの王の治世を数えて終わらせ、この王が国を治める器として不足しているとみなし、このバビロンをメディアとペルシアに分裂させるという内容でした。つまり、この王の神に対しての高ぶりがこのような結果になったのです。そしてこの王はこの宴会の夜に殺されました。(ダニエル書5:30)
なぜ、このような結果になったのでしょうか?それは明白です。
この王が神に対して高ぶったからです。ダニエルが18節〜24節で言っているとおりです。この王の父であるネブカドネツァル王もまた神に対して高ぶり、罰を受けました。そしてその事を見てきたにもかかわらず、この王は神の前にへりくだらなかった。その結果がこれです。自らの力を信じ、自らを主として生きていく。このような態度がこういう結果を招きました。私達はこのような金銀財宝を持ってはなく、王様のような身分でないから大丈夫だと思っているかもしれませんが、本当にそうでしょうか?たとえ、このような王様ではなくても、私達の中には多かれ、少なかれこの様な思いがあると思います。自らの力を信じ、自らを主として生きていくという思いが。
次の聖書箇所の9:18-19はダニエルの祈りの一部分です。この祈りは4節から19節まで続きますが、ダニエルは断食し、粗布をまとって、灰をかぶって祈って、嘆願したと3節に書いてあります。彼はこの祈りの中で自分の罪、自分たちの民の罪を告白し、神に許しを請います。「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」とダニエルは祈ります。(ダニエル書9:18)これこそが、神の前にへりくだることではないでしょうか?それは日本社会で敬語が多く使われていること、人から褒められた時、そのことを否定し、人からあの人は謙遜な人だと思われたいといった社会的な、表面的なへりくだりではなく、本当のへりくだりだと思います。事実、このダニエルの祈りは主に受け入れられます。天使ガブリエルはダニエルにこう言います。「お前が嘆き祈り始めた時、御言葉が出されたので、それを告げに来た。お前は愛されている者なのだ。この御言葉を悟り、この幻を理解せよ。」(ダニエル書9:23)彼は神に愛されている者なのです。なぜでしょうか?それは彼が神の前に真摯にへりくだっているからです。私達にこのダニエルのような神の前の真摯なへりくだりはあるでしょうか?もしなければ、どうすればよいでしょうか?先週から祈祷会を始めました。私を含めて3名が出席しました。感謝です。この祈祷会で使っているテキストがアメリカのサドルバック教会の牧師リック・ウォレン師が書かれた
「人生を導く5つの目的―自分らしく生きるための40章」です。この本は多くの教会で祈祷会もしくは聖書研究会などで使われている本です。この教会員の方ももっていらしたと聞きました。このテキストの第1章に書かれていることが人生の目的を自分ではなく、神にするということです。自分を出発点にするのではなく、神を出発点にするということです。自己啓発といった自分を高めるといったことではなく、神に似たものとされていくことが重要であるということです。このような姿勢が「神の前にへりくだる」ということにつながるのではないでしょうか?
パウロはこう言います。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソの信徒への手紙2:8)
信仰を持ち、偽りでなく、表面的でもなく、社会の慣習でもなく、真摯に神の前にへりくだることで神の恵みとして賜物として私達に救いが与えられるのです。そのような人生を歩んでいこうではありませんか。