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「信仰と行い」

2020年7月19日 7月第3主日礼拝 

説教題:「信仰と行い」

聖書:新約聖書 マタイによる福音書 7章24-27節(12㌻)      

説教者:伊豆 聖牧師

「信仰と行い」という事は私達キリスト者の中で重要なテーマです。私達が救われるためにはどうしたらよいでしょうか?主イェスが私達の罪のために十字架の上で殺される事によって私達の罪があがなわれ、その主イェスが復活されたということを信じる信仰によるものでしょうか?それとも私達がひたすら良い行い(善行)をする、し続けることでしょうか?多くのキリスト者は前者、すなわち、「私達は主イェスを信じる信仰によって救われる」と答えると思われます。

パウロは信仰による救いを旧約聖書に出てくるアブラハムを例に取り、こう言います。「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。」(ローマの信徒への手紙4:2-3)

パウロはさらに、こう言います。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである」」(ローマの信徒への手紙4:5-8))パウロは旧約聖書時代に神に認められた人物であるアブラハムそしてダビデを引き合いに出し、信仰による義、救いを説きます。

では、行いは義や救いに関係ないのでしょうか?ヤコブはこのように言います。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」(ヤコブの手紙 1:22-25)さらに、この事の詳細がヤコブの手紙2:14-26で書かれています。ヤコブはその中の18節で「しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」とまでヤコブは言っています。

ヤコブはこのように御言葉を行うことの大切さを説きます。一見するとパウロが言っている信仰による義、救いと正反対の事を言っているように思えます。信仰による義を主張する宗教改革者のマルチン・ルターはヤコブの手紙をわらの書と呼び、とるにたらない書であるとしました。果たしてそうでしょうか?

本日の聖書箇所に入っていきます。この箇所は主イェスの山上の説教の最後の部分です。マタイによる福音書5章の1節からこの説教を語り始め、様々な教えをされたのですが、この結びの部分は重要です。7章24節で主イェスは教えを聞いて、それを実践する人を岩の上に家を建てた賢い人に例えています。岩というものは固いもの、堅固なものです。主イェスは弟子のペトロにこう言ったほどです。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイによる福音書16:18)

そして、この24節での「岩」とは主イェスの御言葉です。つまり、賢い人は主イェスの御言葉という岩を土台に生きる人のことです。御言葉という岩を土台に生きる人はどういう人達でしょうか?御言葉を行う人です。聞く耳を持ち、御言葉を悟り、さらに生活の中で実践する人のことです。この様な人たちは大雨、川の増水や氾濫、突風などに喩えられる人生の荒波にあっても揺るがないということを25節で主イェスは言っています。

主イェスは26節から砂の上に家を建てた愚かな人の事を話します。前の24節、25節とは逆ですね。その愚かな人は御言葉という強固な岩でなく、この世の考え方、生き方というもろい砂の上に家を建てた人のことです。その様な人は大雨、川の増水、氾濫、突風といった人生の荒波に会うとあたふたして、倒れてしまうと主イェスは言っているのです。

私達の教会は実際、砂の上でなく、粘土質の土の上に立っています。建築する時、重機が沈んでしまうほどであったと聞きました。そして芝を植えるにもひと苦労でしたし、水は雨が降ると駐車場に溜まってしまい、手前3台分の駐車場スペースは使い物にならなくなります。ですので、この砂の上に建てた家という事は少しわかる気がします。しかし、私達の教会は主イェスの御言葉という岩の上に立っているでしょうか。

私達の教会は、そして一人ひとりは聞く耳を持ち、主イェスの教えを悟り、それをそれぞれの生活において実践しているでしょうか?確かにパウロが言われたように、私達は主イェスを信じる信仰によって、恵みによって、義とせられ、救われました。しかし、主イェスが、そしてヤコブがいわれたように、私達の信仰が行いとなって現れてくることが必要です。

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