「神からの誉れ」
2020年7月26日 7月第4主日礼拝
説教題:「神からの誉れ」
聖書:新約聖書 ヨハネによる福音書 5章41-44節(173㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
私達は「人から誉められたい」という思いを多かれ、少なかれもっているかと思います。子供であれば、テストで良い点を取る、有名な学校に合格する、所属している部活で良い成績を挙げることなどで人から誉められたい、そして認められたいと思うかもしれません。大人であれば、会社で良い成績を挙げるなどしてその人の上司や同僚に誉められたい、認められたいと考えるかもしれません。また、オリンピックに出場する選手(今年の東京オリンピックは延期されましたが)、箱根駅伝に出場する大学駅伝のランナーといった運動選手も個人としてまたはチームとして、この「人から誉められたい」という思いを多少なりとも持ってそれぞれ練習に励んでいると思います。
こうして考えると私達の社会はこの「人から誉められたい」という考えであふれているように思います。しかし、この「人から誉められたい」という考えが必ずしも悪いわけではありません。こうした考えによって、競争が生まれ、運動競技であれば、数々の新記録が打立てられ、それを目にする観客に感動を与えます。また、ビジネス、経済において競争は私達の社会を発展させてきました。もちろん、必ずしもこの競争が社会に良い影響を与えてきたというわけではありません。この競争は公害問題、原発問題、資源の取り合いや枯渇問題、環境問題(地球温暖化等)、格差社会など多くの問題を生み出し、私達はまだ完全な解決の方法を見いだせないでいます。また、私達のこの「人から誉められたい」という思いが私達のプライドとなり、他人を排除するもしくは見下すといった行為を私達がしてしまうかもしれません。それは神様の思いから離れてしまうことだと思います。
主イェスは本日の聖書箇所のヨハネによる福音書5章41節で「わたしは、人からの誉れは受けない」と言います。一見すると主イェスは孤立している、人の輪から離れてしまっているような言葉に聞こえます。ちょうど、引っ越してきたのに、ご近所付き合いせず、近所の方々とあまり良い関係を築いていないような感じです。果たしてそうでしょうか?主イェスは「人から誉められたい」という思いよりももっと大切なことがあるのだと言っているのではないでしょうか?次の42節で主イェスは「しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。」と言います。つまり、「人から誉められたい」という思いより大切なことは「神への愛」であると言っているのです。そして、主イェスが41節、42節で言っている相手(あなたたち)は「人から誉められたい」という思いで満たされ「神への愛がない」人物であるということです。ここに神とこの世(この世の価値観)との対立があります。43節を見てください。主イエスは「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」と言われます。ここにも、神とこの世との対立があります。主イェスが父とよぶ神つまり父なる神の御名によってこられて、伝道していたにも関わらず、この人達は受け入れず、誰か肩書を持った偉い人が来るとその人を受け入れると言っているのです。
主イェスが批判している人達は誰でしょうか。ユダヤ人です。主イェスがこの事を言われる前にある事件がありました。主イェスが病人を癒やしたのですが、その日が安息日だったので(安息日に労働してはならない)、ユダヤ人たちは主イェスを非難し、迫害し始めました。しかし、主イェスはそのユダヤ人の非難に対して「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と言われました。(ヨハネによる福音書5:17)そして、ユダヤ人たちは主イェスが安息日を破るのみならず、神を自分の父と呼び、自分を神と同格であるとしたので主イェスを殺そうとしたというのです。このことの経緯はヨハネによる福音書5章の1節から18節に書いてありますから、読んでおかれたらよろしいのではないでしょうか。重要なことはこのユダヤ人達が父の名によって来られた子なる主イェスを受け入れなかったということです。
そして、主イェスは44節でこう言います。「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」
私達はこの「人から誉められたい」という思いで充満している社会で暮らしています。また、挨拶、慣例として誉め合うということもあるでしょう。しかし、そうではなく、主イェスは神からの誉れがより重要だと言っています。では、私達はなぜ、神からの誉れではなく、人からの誉れを求めてしまうのでしょうか。それは神が見えないから、神の御心が解らないからではないでしょうか。逆に言えば、「人からの誉められること」は私達にとって解りやすいし、気分がよいことなので、私達はそれを受け入れている。さらに、慣習としてそれを受け入れている面もあると思います。しかし、「神への愛」「神からの誉れ」を第一に考えなければ私達は神に倣う、キリストに倣うのではなく、この世に倣うものになってしまいます。私達は何者でしょうか。私達はキリスト者です。キリストに倣うものではないでしょうか。そして私達の中でキリストが形作られなければならないのです。パウロは1コリント信徒への手紙9章24から25節でこう言っています。「あなたがたは知らないのですか。競技場で走るものは皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。」
私達もこの「朽ちない冠」である「神からの誉れ」を得るため、私達の中でキリストが形作られるよう、走ろうではありませんか。