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「神の神殿」

2020年8月2日 8月第1主日礼拝 

説教題:「神の神殿」

聖書:旧約聖書 列王記上 8章27-29節(542㌻)

   新約聖書 コリントの信徒への手紙一 3章16-17節(302㌻)      

説教者:伊豆 聖牧師

私が4月1日に、この新会堂の浦和ナザレン教会に赴任してから約4ヶ月経ちました。この新会堂が建てられてから暫く経つにも関わらず、この新型コロナウィルスの影響で当初5月16日に予定されていた献堂式を延期せざるを得ませんでした。教会員の方々は残念に思っていたのではないでしょうか?しかし、規模を縮小しての献堂式を9月26日に行う計画がスタートしたことは当教会主幹牧師として喜ばしいことですし、皆さんもそう思っているのではないかと考えております。神に感謝すると共に皆さんにも感謝します。そして、9月26日の献堂式が無事行われることを神に祈っております。

さて、本日の最初の聖書箇所はイスラエルの王であったソロモン王が神の神殿を建て、その神殿を神に捧げた時、王が祈った、祈りの一部です。つまり、私達の教会でいうところの献堂式の時の祈りということになります。ソロモン王が捧げた神殿がどれだけ壮麗であったかは前章の7章に書かれていますし、この神殿を神に捧げる式がいかに大規模なものであったのかは8章1節から5節、そして62節から66節に書かれています。

しかし、肝心なことは神殿の壮麗さでもなければ、この儀式の規模の大きさでもありません。ソロモン王の祈りです。王は27節でこう言いました。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」(列王記上8:27)この壮麗な神殿すら神にふさわしくありませんと王は言ったのです。王の祈りは28節29節へと続きます。「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」(列王記上8:28-29)王は必死に神に祈っています。王の気持ちが神に焦点が合わせられているのです。ここが重要です。建物、儀式ではなく、神に焦点が合わせられているかどうかが肝心です。

ソロモン王は30節から53節までこれからイスラエルの王国とその民に起こる具体的な状況を想定して祈り続けました。王の祈りは神に対して真摯であり、神に焦点を置いていました。この儀式の間、神は王に、そして民に応えました。雲が神の神殿を満たし、その後、主の栄光が神殿を満たしました。(列王記上8:10-11)

さらに、主は王の前に現れました。(列王記上9:1-9)

しかし、これほど素晴らしい祈りをし、神に愛された王ですら、やがて神から離れてしまいます。ソロモン王は神に選ばれ、愛されたダビデ王の息子であり、王自身、神に祝福され、比類なき知恵を与えられ、王国を統治していました。しかし、王は神から離れた。王の焦点が神から別の神々に移ってしまったのです。この事は列王記上11章1節から10節に書かれています。

結果として神はソロモン王の息子の時代にイスラエルの王国を分断し、イスラエル王国とユダ王国に分断します。この事は11章11節から12章に書かれています。この後、両王国とも神から離れ、他の神々に仕え、国内は不正がはびこりました。神は何度も預言者を送り、神に立ち返るよう、民を促しますが、民は聞く耳を持ちません。

やがて、イスラエル王国は紀元前722年にアッシリア王国に滅ぼされます。ユダ王国は紀元前586年にバビロニア王国に征服され、民はバビロニアに捕虜として連れて行かれました。

王国の滅亡、くしくも、ソロモンが祈りの中で述べた状況が現実となりました。(列王記上8:46)そして、主自身もこの事を述べられていました。(列王記上9:6-9)。王国の分裂と滅亡はなぜ起こったのでしょう。それは人々が神から離れたからです。焦点を神から別のもの(偶像)に移したからです。ソロモンは知恵もあり、富もありました。しかし、神から離れました。その後、王国は分裂し、その王国の人々もまた神から離れました。ここに原因があります。神の神殿とは知恵、壮麗な建物、大規模な儀式、富ではないのです。神の神殿とは神に焦点を合わせることです。私達の心は神に向かっているでしょうか?神に焦点が合っているでしょうか?ソロモン王が祈った時のような心持ちでいるでしょうか?逆に私達は晩年のソロモン王やその後のイスラエル王国、ユダ王国の民のような状態ではないでしょうか?一度私達の心の棚卸しをすべきかもしれません。

本日の2箇所目の聖書箇所に入っていきます。1コリント信徒への手紙3章16節です。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」とパウロはコリントの信徒へ言いました。パウロはコリントの信徒たちに対して「あなた達自身が神の神殿であり、神の霊があなた達に宿っている」と言っています。この事は今まで私が述べてきた「神に焦点をあわせる」より、直接的な表現です。さらに、17節でパウロは言いました。「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」私達、ひとり、ひとりが神の神殿であり、神の霊が私達に宿っている。そして、その神の神殿を壊すつまり、(神の霊)聖霊に反して行動する、もしくは、し続ける場合、神はその行動をする人を滅ぼされるということをパウロは言っています。私達の焦点は神に合っているでしょうか?

私達は本当の神の神殿を建てあげているでしょうか?それとも壊しているでしょうか?吟味が必要だと思います。

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