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「祝福への渇望」

2020年8月9日 8月第2主日礼拝 

説教題:「祝福への渇望」

聖書:旧約聖書 創世記 32章25-31節(56㌻)       

説教者:伊豆 聖牧師

ここに登場するヤコブという人物はユダヤ民族の基礎を築いた族長と呼ばれる人たちの一人です。彼の父はイサクであり、祖父はアブラハムです。後の時代、神がモーセの前に「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として現れました。(出エジプト3:6) そして、ヤコブの12人の息子達が後のユダヤ民族の12部族になったのです。ここまで見てくると、ヤコブがイスラエルの歴史の中で重要な人であったことが解るかと思います。

では、このヤコブとは実際どういう人物であったのでしょうか?

ヤコブは彼の父であるイサクと母リベカとの間に生まれた息子でしたが、双子として生まれてきました。彼の双子の兄であるエサウと母リベカの胎内で争って生まれてきたのです。兄のエサウが母リベカの胎から先に出てきたのですが、弟であるヤコブは兄エサウの踵を掴んで出てきました。踵とはヘブル語でアケブといいます。そして、彼はヤコブ(踵を掴む者)と名付けられました。このことは創世記25章21節から26節に書かれています。

ヤコブ(踵を掴む者)はあまりいい意味ではありません。それは出し抜く者という意味だからです。実際、ヤコブの人生は彼の名前である「踵を掴む者」、「出し抜く者」そのものでした。彼は彼の兄エサウから長子の権利と祝福を奪いました。兄エサウが外で狩りをし、疲れて家に帰ってきた時、ヤコブは家で煮物を料理していました。空腹だったエサウはヤコブが料理している煮物を食べさせてほしいとヤコブに頼むのですが、ヤコブはそれと引き換えにエサウの持っている長子の権利を要求します。エサウは空腹さに負け、彼の持っている長子の権利を譲ってしまいます。(創世記25:27-34)さらに、ヤコブは父イサクがエサウに与えようとしていた祝福をエサウから奪ってしまいます。ヤコブは父イサクが老齢でよく見えないことを利用し、母リベカと共謀し、兄エサウになりすまし、祝福をエサウから奪いました。騙されたエサウは激怒し、長子の権利を奪われたこともあいまってヤコブを殺そうとしますが、リベカはヤコブを彼女の兄であるラバンの所へ逃します。(創世記27:8-45)

ここまで見てくると、このヤコブという人物はひどい人間だと思います。まさに、彼の名前のごとく、兄から長子の権利と祝福を兄そして父を騙して奪ってしまうのですから。このような人物がユダヤ民族の族長と呼ばれることに違和感を覚える方もいらっしゃるかと思います。しかし、神の見方は違っていました。神の彼への祝福は彼が生まれたときから続いていました。彼が生まれるとき、神は母リベカに「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」と言われました。(創世記25:23)。また、マラキ書1章2節から3節に「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあり、このマラキ書を引用し、パウロは神の選びについてローマ信徒への手紙9章13節から18節で説明している。

だとすると、私達の価値判断は全く無意味であろうか。兄や父を騙したヤコブは悪く、神に祝福される資格がないと考える判断は無意味であろうか。おそらく、神は兄や父を騙す、騙さないといった事を超える所で判断しているのではなかろうか。それは神の祝福への渇望、神に対する求めであると考える。エサウは食事のために長子の権利を弟に売りました。愚かであったのです。長子の権利を軽くみたのです。また兄と父を騙したとは、ヤコブはそれほど祝福がほしかったのです。彼は祝福を渇望していたのです。その彼の神からの祝福への渇望が本日の聖書箇所に現れています。ヤコブは彼の母リベカの兄、彼にとっては叔父に当たるラバンの元で暮らし、家族を作りますが、そこから家族と共に逃亡して、兄エサウがいる彼の故郷に戻る途中です。彼が彼の叔父ラバンから逃亡する経緯は創世記31章に書かれていますので、後ほどお読みになられるといいかと思います。

聖書箇所に戻りますが、ヤコブは何者かと格闘します。

レスリングのようなものだと考えるといいかもしれません。ヤコブは戦い続けますが、相手は夜が明けるということで、この格闘をやめようと言いますが、ヤコブはこう言います。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」(創世記32:27b)ここにヤコブの神の祝福への渇望があります。「あなたが祝福してくれるまで離しませんよ」というのです。ヤコブは必死です。相手が呆れるほどです。相手はまずヤコブの名前を尋ね、その後、名前をヤコブからイスラエルに変えるようヤコブに言います。ヤコブが神と人と闘って勝ったからだと言うのです。(創世記32:28-30)

彼はもうヤコブ、踵を掴む者、人を出し抜く者、ではなくなりました。彼は人生の前半、人を騙して、生きてきました。その後、彼は叔父であるラバンの所に滞在していましたが、ラバンの娘たちと結婚することに関して騙されました。その後、彼とラバンの確執から彼の元を逃亡しましたが、その間も主の祝福が彼の上にありました。ヤコブはこのある者(神)との格闘において、彼のこれまでの人間的なしがらみを振り捨て、神に対して真剣に向き合うようになったのだと思います。彼は「『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。」と言っています。(創世記32:32)

彼のこの行動の原動力は神の祝福に対する彼の渇望です。

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