「希望をもって歩む」
2020年8月16日 8月第3主日礼拝
説教題:「希望をもって歩む」
聖書:新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章28節(285㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
今年は新型コロナウィルスで始まった年と言っていいでしょう。この影響は私達の生活を一変させ、私達は以前の様に自由に生活できないでいます。マスク着用、ソーシャルディスタンスを保っての買い物、不要不急の外出の自粛、夏休みの実家への帰省の自粛などです。つまり、この新型コロナウィルスが与えた影響の一つが生活の不自由さであると思います。私達はこの新型コロナウィルスの流行以前であっても、様々な法律的、そして社会的制約の中で生活してきました。しかし、これほどの不自由さ、そして煩わしさは私の記憶ではなかったと思います。
さらに、この流行は単に生活の不自由さ、煩わしさを私達に与えているだけではありません。実際にこのウィルスに感染し、症状が出ている方々にとっては辛いことですし、生死に関わる問題でもあります。そして、病院の病床はこの新型ウィルスに感染した患者の増加で数が少なくなっており、病院は一般患者も含めて対応出来なくなってきています。
このことは、医療従事者への偏見や差別と共に病院のスタッフにストレスを与えています。もちろん、この新型コロナウィルスに感染した患者そしてその人の家族に対する差別、偏見もあり、このことが患者本人とその人の家族にストレスを与えているという事もあると思います。これまでなかった私達の生活の不自由さ、医療従事者や感染者に対する差別や偏見、そのことによって彼らが受けるストレスなどを考えると私達の社会、私達は苦難を経験していると言っていいでしょう。
パウロは苦難に関してなんと言っているでしょうか?「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」(ローマ8:18)一見すると、パウロの言葉は現実に苦しんでいる人たちに対して配慮に欠けているのではないかと思ってしまいます。パウロは現実の苦しみを知らないのではないかと思ってしまいます。しかし、彼は現実の苦しみを知っていました。彼はユダヤ教からキリスト教に改宗し、イェス・キリストの福音を述べ伝えるにあたってユダヤ人、異邦人から罵りや殺されそうになるという様々な迫害を受け、裁判にもかけられました。パウロ自身このように言っています。「労苦したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え乾き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(2コリント11:23-27)
このように、現実の痛み、苦難をパウロは知っているのです。そのパウロがローマ8:18では現在の苦しみは取るに足らないと言っているのです。なぜでしょうか?それは将来、彼の前にキリストの栄光が現されることを彼が確信していたからです。それだけでなく、彼は神の子とされること、体が贖われることを待ち望んでいるとローマの信徒への手紙8:23で言い、さらに、24節でこの希望によって救われていると言っています。
私達はキリスト・イェスに私達の罪を十字架の上で贖っていただいたということを信じる信仰によって救われました。しかし、パウロは私達は救われてはいるが、まだ、神の子とされてはいない、体が贖われてはいないと言っています。キリスト・イェスを通して神の子とされ、体が贖われるという栄光を私達は希望しているということです。このことは、あやふやな不確かなように聞こえます。なぜなら、それは目に見えないからです。しかし、私達は 目には見えない神を信じています。パウロは言っています。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:24-25)
本日の聖書箇所は「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」です。(ローマ8:28)
ここでパウロが言っている「神を愛する者たち」「御計画に従って召された者たち」とは誰でしょうか。それは私達です。「万事が益となって働く」とは、新会堂の建築といった良い事もあれば、この新型コロナウィルスのような苦難もそれが、神の目的を達成するために益となって働くということです。
私達は将来、キリスト・イェスへの信仰を通じて、目には見えないけれど、神の子とされ、体が贖われるという将来の希望を持っています。この新型コロナウィルスの影響もこれからどうなるかわかりませんが、受け入れて、希望を持って歩んでいきたいと思います。