「神からの知恵」
2020年8月23日 8月第4主日礼拝
説教題:「神からの知恵」
聖書:新約聖書 コリントの信徒への手紙一 2章6-10節(301㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
知識、情報は人が生活していく上で大事な物です。私達はこれらを知らないせいで、失敗をしたり、人前で恥をかいたり、もしくは人から非難されたりします。最近で言えば、新型コロナウィルスに関わる私達の行動、例えば、マスクの着用、消毒、換気、ソーシャルディスタンスを取ること等ではないでしょうか?今はこれらの事はマスメディアの協力もあり、常識となりつつありますが、初めの頃はこれらの事をする意味がよくわからず、もしくは知ってはいても反発し、これらをせず、トラブルに巻き込まれることもあったと思います。例えば、電車やバスにマスクをせず乗っていた人がマスクをして乗っていた人に非難されるといったことです。
知識、情報を知っていることは私達にとって必要なことではありますが、必ずしもそれらの知識、情報が正しいというわけではありませんし、それらを鵜呑みにすることによって、私達はかえって正しい判断が出来なくなるようにもなります。マスメディアでは自覚症状がある、なしに関わらず、PCR検査を受けたほうが良いという専門家の意見もあれば、PCR検査をどんどん受けて、陽性患者が増えれば、病院の病床数が足りなくなるのでPCR検査が受けられる条件を緩和すべきでないという意見もあります。また、マスクがないという報道がされ、多くの人々がスーパー、薬局、コンビニでマスクの買いだめをし、一時期、私達はマスクを買えなくなったということはご記憶しておられる方も多いと思います。このように、知識、情報というものは万能ではありません。専門家によっても意見が分かれているものもあれば、不確かで、あやふやなもの、さらに言えば嘘やデマもあります。そして、最近のインターネット、ソーシャルメディアの発達で嘘やデマによる個人攻撃も増えてきています。こうして考えてみると、私達はまるで、マスメディア、インターネット、ソーシャルメディア、さらに言えば、専門家と言われている人々の間で右往左往し、揺れ動いている、儚い存在に思われます。
知識、情報は大事です。しかし、このような曖昧であやふやな知識・情報が氾濫し、専門家でさえ時として対立し、様々な意見を主張する時代にあって、私達はどう生きていけば良いでしょうか?
私達はこの状況下で何が正しくて、何が間違っているかを選ばなければいけないと思います。この情報が氾濫する中で取捨選択をしなければいけないと思います。そのときに、必要なものは正確な情報と判断基準です。もちろん、私達が手に入れられる情報の正確さには限界があるでしょうが、可能な限り正確な情報を集めることが必要になってきます。
しかし、最も必要なことは判断基準です。私達の判断基準をどこに置くかです。人はその人、その人が持っている信条もしくは価値観に従って決断をします。私達、キリスト者の信条もしくは価値観とは何でしょうか?それは本日の聖書箇所でパウロが語っている神の知恵だと思うのです。
「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。」
(1コリント信徒への手紙2:6)
私達キリスト者は、この世の人たちと違った判断基準があると考えます。それが主イェス・キリストに対する信仰であり、成熟した信仰者であれば持っている神の知恵です。そして、この神からの知恵とはこの世の知恵とは違っているとパウロは言うのです。この世の価値観は移ろいやすいのです。ですが、神の知恵は確固たるものです。私達は移ろいやすいこの世の価値観ではなく、この確固たる神の知恵によって物事を判断すべきではないでしょうか。
パウロはさらに7節で神の知恵を「隠されていた、神秘」と呼び、8節の前半で「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。」と言い、さらに、9節前半で「しかし、このことは「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」」と言いました。ここでパウロは神からの知恵はこの世の人たちには理解できない、隠されているものであると言っているのです。たしかに私達が持っているキリスト・イェスに対する信仰、成熟した信仰者が持っている神からの知恵などはこの世の人たちにとって見れば価値のないものかもしれません。しかし私達、キリスト者に取ってみれば、それらは重要なことなのです。
主イェスはルカによる福音書20章17節で詩篇118章22節を引用し、このように言っています。
「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」
主イェスは人々に捨てられ、十字架に掛けられましたが、彼を信じる者にとっては救い主となったのです。
パウロは1コリント信徒への手紙1章18節でこのように言っています。
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
私達はこの世に生きていて、この世で生きていく上でこの世の知識、情報を活用しなければいけません。しかし、私達は物事を判断するにあたってはこの世のそれではなく、神からの知恵を用いなければいけないと思うのです。そういう意味で言えば、私達はこの地上に仮住まいをしている状態と言えます。このことはヘブライ人への手紙11章13節もしくは11章全体を読んでいただければと思います。では、どうしたら、私達はこの神からの知恵を得ることができるでしょうか?以前、お話しましたが、それは神に目を向けることです。これは現実逃避するということではなく、現実の事柄、例えば、情報に注意を払いつつも、それを絶対視しないということです。箴言の1章7節にこう書かれています。「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」