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「告知」

2022年12月18日 アドベント第4主日礼拝

説教題:「告知」

聖書 : 新約聖書 ルカによる福音書 1章26節-38節(100㌻) 

説教者:伊豆 聖牧師


 本日は第4アドベント主日礼拝です。いよいよ、待ちに待った主イエス・キリストの御降誕が近づいてきました。このアドベントが始まってから私が言ってきたことは主がこの御降誕のために旧約聖書時代から準備をしてきたということ、そして人々はこの御降誕を受け入れる準備をしなければいけなかったということでした。主が用意された準備とは何かというと旧約聖書時代に語られた預言、新約聖書時代に語られた預言、そして天使のお告げなどです。新約聖書時代に語られた預言と聞くと何か違和感を持たれる方々もいらっしゃると思います。なぜなら預言と聞くと、皆さんはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルといった旧約聖書時代の預言者を思い浮かべると思うのです。しかし、新約聖書の時代にも主イエスの御降誕の預言は人々によってされましたし、主イエスご自身も御降誕し、公現(こうげん)し、この地上で伝道をなされていたときも預言されていました。


 さて、本日の聖書箇所は主イエスの御誕生が天使ガブリエルによって主イエスの母マリアに告知される場面です。この前の箇所1章5節から22節までは洗礼者ヨハネの誕生が天使ガブリエルによって父ザカリアに告知されました。天使ガブリエルによる洗礼者ヨハネの誕生の告知、その後の主イエスの御誕生の告知は主がいかに入念に主イエスの御誕生をご計画にしたがってご準備されていたかがわかります。洗礼者ヨハネは先週の説教で申し上げたように主イエスに先立って人々を主に立ち帰らせるよう遣わされた者です。実際洗礼者ヨハネは主イエスが公に現れる前に人々に洗礼を授けていました。そして、主イエスご自身も洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのです。さらに言うならば、これは人間的な言い方になってしまいますが、主イエスの母マリアと洗礼者ヨハネの母エリザベトは親戚同士でした。これだけを見ても、主は御子イエスの御誕生をしっかりと準備されていたことがおわかりになると思います。

 さて、本日の聖書箇所に話を戻しますと天使ガブリエルはマリアの所に来て言いました。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

(ルカによる福音書1章28節)

祝福の挨拶ですね。「主があなたと共におられる。」とはヘブライ語で「インマヌエル」と呼ばれます。

確かに天使ガブリエルのこの祝福の挨拶は素晴らしいものではあるのですが、マリアにしてみたら何が何だかわかりません。だからこそ、次の29節にこのようなマリアの様子が書かれていたのです。つまり「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」

しかし、天使はそのマリアの困惑を払拭するために言葉を続けます。30節の最初の言葉は「恐れることはない。」です。これは天使が人の前に現れる時によく使われる言葉です。なぜなら、私たちの感覚では天使は素晴らしいものという印象なのですが、昔の人々、いわゆる旧約聖書、新約聖書に出てくる人々にとってみれば天使もしくは神というものは神聖で、畏れ多い存在、恐ろしい存在で遭ってしまったら最後、命を取られてしまうかもしれないと思われていました。ですから、天使ガブリエルはマリアに主イエスの御誕生を告げる時にこの「恐れることはない。」という言葉を発したのです。その後、天使は主イエスの御誕生、名前(イエスと名付けなさいということ)、主イエスがいかなる方なのかを告知されます。受胎告知です。

この流れはこの天使が洗礼者ヨハネの受胎告知をザカリアにしたのと同じですね。男の子がザカリアの妻エリザベトに生まれる。その子の名前をヨハネと名付ける。その子は「…既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

(ルカによる福音書1章15節から17節)

マリアは受胎し、男の子を生む。その子をイエスと名付ける。

その子は「偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

(ルカによる福音書1章32節から33節)

天使ガブリエルはザカリアにもマリアにも同じ様に告知をしていることがわかります。そして告知の後のザカリアとマリアの対応も似ています。

「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」

(ルカによる福音書1章18節)とザカリアは天使に言いました。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

(ルカによる福音書1章34節)とマリアは天使に言いました。

双方とも天使の言うことを疑ったわけです。


 ですが、ここで天使の対応が違ってくるのです。ザカリアに対しては天使の言うことを疑ったということで、口が利けなくなるという罰が与えられてしまうのです。しかし、マリアに対して天使はさらに説明を続けます。それが35節から36節に書かれています。ザカリアもマリアも天使の言ったことを疑ったにもかかわらず、なぜザカリアだけが罰を与えられてしまったのかはわかりません。しかし、確かなことはマリアが天使のさらなる説明を受けて天使の言葉を受け入れたということです。


 もちろん、マリアはこれを理解して、理性的に受け入れたということではないのかもしれません。マリアは天使に次のように言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」

(ルカによる福音書1章38節)

この言葉は理性的に天使の言ったことを受け入れたというようには感じさせないからです。むしろ、マリアは分からないながらも従順に天使の言葉つまり主の言葉を受け入れた様に思います。

彼女の言葉には二つの重要な要素があります。

それは「へりくだり」と「信仰」です。

「わたしは主のはしためです。」という文は「へりくだり」を表し、「お言葉どおり、この身に成りますように。」は「信仰」を表します。そして信仰とは主にすべてを預けるということです。

アブラハムは主の召命により、知らない土地に旅をしました。

主はアブラハムに空の星ほどに彼の子孫を増やすと仰られ、アブラハムは主を信じ、主はそれを彼の義とお認めになられたのです。これこそが信仰による義です。このアブラハムの模範はローマの信徒への手紙4章1節から12節に書かれています。

またヘブライ人への手紙11章にも信仰について書かれています。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」

(ヘブライ人への手紙11章1節から3節)

マリアの信仰もまたこの世の常識ではありえない事であり、まだ起こっていない事を主の言葉だからこそ信じたのです。彼女の身を主に預けたのです。これこそが信仰なのです。

主は準備を整えられています。私たちはマリアのようなへりくだりと信仰を持って主をお迎えする準備を整えているでしょうか?

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