「犠牲」
2024年10月13日 聖霊降臨節第22主日
説教題:「犠牲」
聖書 : 士師記 11章29節-40節(402㌻)
説教者:伊豆 聖牧師
イスラエル人は主に選ばれた民であるということは間違いないのです。主がアブラハムを選び、彼と彼の子孫を祝福するという約束をなさいました。そして実際に主は祝福されてきました。アブラハムの人生、そして彼の息子イサクや孫のヤコブの人生を見てみますとそれがわかるかと思います。もちろん彼らの人生の中で危機や主による試みによってつらい事もあったというのも事実ですが、最終的に彼らは主に祝福された人生を歩んだと言えると思います。私はいままでに彼らの話を説教でしてまいりましたので皆さんもおわかりの事と思います。
さてヤコブの息子のヨセフですが彼もまた主に祝福された人物でした。彼は他の兄弟たちよりも父ヤコブに特別に目をかけられ、晴れ着なども父から贈られていました。しかしそのせいで他の兄弟たちから疎まれ、ある日彼らによってあろうことかエジプトに売られてしまいます。しかし主は彼を見捨てず最終的に彼はエジプトでファラオに次ぐ地位、宰相の地位に上り詰めます。
ある時期からエジプトを含めその周辺地域に飢饉が起こり始めます。ヨセフはファラオの夢の解釈によって事前にその事を知らされていて、飢饉の前の豊潤な時に食料を保管していたので対処ができたのですが、周辺地域の人々は困窮し、エジプトに食料を買い出しに来ました。カナンに住むヨセフの父ヤコブは彼の息子たちにエジプトに買い出しに行かせました。彼らは宰相になったヨセフと会うこととなったのですが、ヨセフは彼らを兄弟であると気づきましたが、彼らは目の前の宰相がヨセフであると気づきませんでした。その後、兄弟たちに気づいたヨセフとヨセフに気づかない兄弟たちの間で様々な葛藤とやりとりがありました。ですが、最終的にヨセフは自分の事を彼らに明かして、彼らを受け入れました。そして困窮する彼らを父ヤコブも含めてエジプトに招き入れました。ですから彼らは飢饉によって滅びる運命から救われたのです。誰に救われたのでしょうか?ヨセフによってでしょうか?確かに直接にはそうでしょう。しかし主によって救われたのです。もしエジプトに売られたヨセフが死んでしまっていたらどうなったでしょうか?飢饉がおこり彼らがエジプトに買い出しに行った時には多分別のエジプト人の宰相なり、担当の者が彼らに対応していたのではないでしょうか?そしてそのエジプトの担当者は彼らに対してやさしくはなかったのではないでしょうか?
主がファラオに豊潤な時があり、その後に飢饉が起こるという夢を喩えによって知らせたのですが、もしヨセフが亡くなっていたらその夢を解釈することすらできなかったのです。つまりエジプトが飢饉によって崩壊していた可能性すらあったのです。当然ヤコブたち一家が住んでいたカナンも含めて危機は襲いましたから彼らもまた滅んでいた可能性もあったわけです。だからこそ彼らは主によって、主のご計画に基づき救われたのです。主はアブラハムとその子孫を恵むとお約束されたからです。
さて移住したイスラエル人はエジプトの国で多くなりましたが、それに脅威を感じたのがエジプト人です。ファラオは彼らを奴隷とし、迫害しました。彼らは救いを求め声を上げました。そしてその声を聞かれたのが主です。主はアブラハムとその子孫を恵むという約束に基づきモーセを民のリーダーとして立て、彼らを救い出しました。
彼らは主によってエジプトから救われたのですが、何度も主に逆らってしまいました。結果として大人たちの世代はヨシュアとカレブ以外は砂漠で死に絶え、主が導きいれると約束したカナンの地に入ることは出来ませんでした。モーセは逆らってはいませんでしたが、そのモーセすら入ることが出来なかったのです。モーセは彼らに遺言を残し亡くなります。それは単純に言えば、主に従えば恵まれ、主に逆らえば滅ぼされるというものです。だから主に従いなさいということです。なぜモーセがそのような遺言を彼らに残したのか?それはリーダーであるモーセがいた時ですら彼らのモーセに逆らい、主に逆らってきたので、もし彼がいなくなってしまったら、彼らは一体どうなるのだろうかという心配からでした。
モーセ亡き後、イスラエルを導いたのはヨシュアでした。彼もまた主に誠実な優秀なリーダーでした。ですが、イスラエルの民は度々主に逆らいました。ですから、ヨシュアが亡くなる前、モーセと同じように遺言を残しました。彼は彼らに主に従うかどうかを聞きます。そして例え彼らが従わなくてもヨシュアとその家族は主に従うと宣言します。それは歌になっていますね。新聖歌398です。
ヨシュアに問われた彼らは主に従うと答えましたが、ヨシュア亡き後、主を知らない世代が起こり、主に従わなくなりました。そのような主にさからう彼らに主は度々災いを与えました。多くは異民族による彼らへの圧迫と支配です。もともと主は彼らに異民族を排除するように、そして彼らの慣習を排除し、とりわけ彼らの神を拝まないように命令をしました。しかし彼らはそれに従わなかったのです。ですから、これは彼らの自業自得であるのです。
ですが、彼らが耐えきれずに主に助けを求めると主は士師と呼ばれるリーダーを民から起こし、彼らを救われたのです。ですが、一旦救われるとまた彼らはそれに安住し、主に逆らうという悪循環に陥ってしまったのです。その事が書かれているのが士師記です。
本日の聖書箇所は士師記の一部ですが、それを語るのに随分と前から、アブラハムから話を始めるとは大変ですねと言われそうですが、やはりそれには意味があると私は考えています。どういう意味かといいますと、主はイスラエル人に誠実であったが、彼らは主に対して誠実でなかったということです。それを私はいままで時系列で表してきたのです。
これを実際に聞いてきてどう感じられましたか?主が誠実にイスラエルの民に対して対応してきたのに、彼らは主に対して誠実でなかった。あまり快、不快という形でもって判断はしたくないのですが、やはり私は主に対して快を抱き、民に対して不快と思ってしまいます。人間関係を考えてみればおわかりかと思います。こちらが誠実に対応してきたのに相手が不誠実な対応ばかりしたらどう思いますか?お金を貸しても返さない、その事に対して気にも留めない、毎回遅刻をするなど具体例は様々ですが、不快に感じるのではないでしょうか?それと同じです。
さて私達は主に対してどうでしょうか?主に対して誠実でしょうか?イスラエルの民は主に選ばれた民であると私は言いました。同じように私達もイスラエルの民と同じように主に選ばれた民です。キリストの十字架の犠牲によって私達の罪が赦され、主の恵みとキリストを受け入れた信仰によって神の民とされた者です。
ペトロはキリスト者に対してこのように手紙で書き送っています。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』』のです。」
(Iペトロの手紙2章9節から10節)
この中で「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」という表現に注目してください。
「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」(出エジプト記19章6節)
これは主がモーセに仰った言葉です。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」(申命記7章6節)
これは先程言ったようにこれから亡くなるモーセがイスラエルの民に残した遺言です。
ペトロは主のイスラエルの民に対するこれらの言葉をなぞってこの手紙の箇所を書きました。ですから主とイスラエルの民との関係を意識しつつ、主と私達キリスト者との関係を考えるということは大切です。果たして私達は主に対して誠実でしょうか?
さて本日の聖書箇所に入っていきます。まずエフタという人物が出てきますが、この人が主人公です。彼は士師です。つまり反逆したイスラエル人が異民族に圧迫され、主に助けを求めたので彼らを救うために主が立てられたリーダーというわけです。
彼はどういう人物だったのでしょうか?彼はギレアドという地で生まれました。そしてギレアド(人名)と遊女との間に生まれた息子でした。ギレアドには妻がいて、その妻も男子を何人か生みました。男子たちが成長すると、このよそで生まれたエフタに「ここにあなたの受け継ぐものはない。」と言い、彼を追い出しました。追い出されたエフタはトブの地でならず者たちと一緒に生活をするようになりました。
しばらくすると、アンモン人がイスラエルに戦争を仕掛けてきました。そうしたとき、ギレアドの長老たちがエフタをトブから連れ戻そうとやってきたということです。エフタは勇者であり彼に指揮官になってもらいたかったからです。何を勝手なことを言っているのだという感じです。事実エフタは彼らにこのように言いました。「あなたたちはわたしをのけ者にし、父の家から追い出したではありませんか。困ったことになったからと言って、今ごろなぜわたしのところに来るのですか。」(士師記11章7節)
それに対して彼らはこう言いました。「だからこそ今、あなたのところに戻って来たのです。わたしたちと共に来て、アンモン人と戦ってくださるなら、あなたにわたしたちギレアド全住民の、頭になっていただきます。」
(8節)
彼らは自分の身勝手さを承知してなおかつそれを正当化しました。ですが、彼らは反省もして、エフタを自分たちの頭として迎え入れると申し出たのです。エフタは彼らの申し出を受け入れました。
この後のエフタと長老たちとの間のやり取りで大切な言葉が出てきます。
「あなたたちがわたしを連れ帰り、わたしがアンモン人と戦い、主が彼らをわたしに渡してくださるなら、このわたしがあなたたちの頭になるというのですね。」(9節)
「主が彼らをわたしに渡してくださるなら、」
「ギレアドの長老たちは、エフタに言った。『主がわたしたちの一問一答の証人です。わたしたちは必ずあなたのお言葉どおりにいたします』と答えた。」(10節)
「主がわたしたちの一問一答の証人です。」
「エフタは、ミツパで主の御前に出て自分が言った言葉をことごとく繰り返した。」(11節)
9節から10節にかけて主が出てきますね。これが大切です。
つまり人ではなく、主が戦われるのです。主がエフタを選ばれたのです。このようにしてエフタが士師として選ばれ、アンモン人と戦うこととなるのです。
本日の聖書箇所に戻りますと11章29節に「主の霊がエフタに臨んだ。」と書かれていますね。これもまたエフタが主に士師として選ばれた証拠です。そして彼は兵たちを進めアンモン人と戦いました。そして「主は彼らをエフタの手にお渡しになった。」(32節)とあります。主がエフタを勝たせたのです。そして「彼はアロエルからミニトに至るまでの二十の町とアベル・ケラミムに至るまでのアンモン人を徹底的に撃ったので、アンモン人はイスラエルの人々に屈服した。」(33節)とあります。イスラエルの大勝利です。
ですが問題がありました。それはエフタがアンモン人と戦うにあたってある誓いを立てたということです。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。」(31節)
先ほど言ったように主は彼を勝たせました。そしてなんとエフタを家の戸口から迎えに出たのは彼の一人娘だったのです。エフタはそれを見て絶望します。「ああ、わたしの娘よ。お前がわたしを打ちのめし、お前がわたしを苦しめる者になるとは。わたしは主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」(35節)エフタはこう言いましたが、エフタの娘はこの運命を受け入れました。
さて35節でエフタは少し自分の娘を責めるような言い方をしていますが果たしてそれは正しいことでしょうか?あのような誓いをする前、もしかすると自分の娘が出てくるかもしれないと思い至らなかったのはあまりに軽率であったと思います。いやむしろそのような誓いを立てなくても、ひたすら主を信じて戦えばよかったのではないでしょうか?エフタがあのような誓いをしたということはもしかすると主を完全に信じていなかったのではないでしょうか?
主の誓いに関しての言葉を思い出してください。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。…また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」(マタイによる福音書5章33節から37節)
エフタの娘は犠牲となりました。しかしこれは勝利を得るための尊い犠牲でしょうか?それは否です。エフタが主を信じきれていないから、そしてもしかすると自分の一人娘が出てくるかもしれないという想像力の欠如からあのような誓いを立ててしまったのです。まさに悪い者から出たものです。そして結果は一人娘を失うということです。尊い犠牲とは何でしょうか?それは主イエスの犠牲です。主イエスは十字架の上で私達の罪の贖いのために死なれました。それこそが尊い犠牲なのです。そして主はご復活されました。私達はこの証のために生かされているのです。
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