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「聖餐」

2024年7月28日 聖霊降臨節第11主日

説教題:「聖餐」

聖書 : Ⅰコリントの信徒への手紙 11章23節-29節(314㌻)​​​​

説教者:伊豆 聖牧師


 コロナ禍でしばらくの間、聖餐式を取りやめていたことは残念なことではありましたね。私にとってみれば神学校を卒業して、初めて遣わされたこの浦和教会でこのように聖餐式を執り行えないということは何か釈然としないものを感じておりました。ですが、他の教会もコロナ禍で聖餐式をすることが出来ない状態であるのでこれはもう致し方ないと思うようになりました。感染するリスクをなるべく少なくするためにそうするしかありませんでした。そしてそれを無視して聖餐式を行っていた教会で感染が確認されたというニュースを聞いてからはますます注意するようになりましたし、おそらく、皆さんも同じ思いであったことだと思うのです。

 しばらくしてコロナが徐々に収まってきてから、聖餐式をウェハースと密閉型の容器に入ったぶどう液で執り行いましょうということを決めました。そしてそのような方式でしばらく執り行ってから、昔のように普通に執り行うことが出来るようになりました。

 ここまで来るのに随分な道のりでしたが、本当に良かったと思います。と申しますのはコロナ禍という状況の中、感染を防ぐということで聖餐式をしなかったのですが、やはり聖餐式というのは礼拝の中で重要なものであり、それをしないということはやはりその重要なものを欠いてしまっているからです。


 さて何でこの聖餐式が重要であるのかということですが、それは主がお命じになられたからであるとパウロが言っていますね。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。」

(Iコリント11章23節から25節)

 確かに主が「このように行いなさい」とお命じになられていますね。だからそうするのです。本来それだけで私達がそうするのに十分なのですが、もう少し見ていきましょう。食事というものは大事なものです。それは私達に栄養を与え、健康を維持するのに必要なものです。主イエスと弟子たちは何度も一緒に食事をなさったのですが、聖餐式の由来である食事は引き渡される前になさった特別な食事です。つまり特別に私たちに栄養を与えるパンと杯です。つまり私達が今聖餐式で食べているパンや飲んでいるぶどう液はキリストの体を食べ、キリストの血を飲んでいるということなのです。主イエスは主イエスの体を食べ、血を飲みなさいと仰っています。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

(ヨハネによる福音書6章53節から56節)

 私達は主イエスを受け入れ、洗礼を受け、礼拝をし、聖書を学び、信仰によって歩むことによってこのまことの食べ物である主イエスの肉を食べ、まことの飲みもの主イエスの血を飲んでいるのですが、聖餐式もまた同じなのです。そしてパンを食べ、ぶどう液を飲むことはそれを象徴しているのです。

 それだけでなく、これは「記念」であり、「契約」であるとも主イエスは仰いました。記念というものは重要なものです。今までコロナでもって自粛していましたが、最近でお祭りがまた盛り上がってきましたね。特にこの時期、夏ですからおこなわれるのではないでしょうか?確かこの前でしたか、日曜日にもありましたね。もっともこの記録的な猛暑ですので少し考えたほうがいいかもしれません。少し話が脱線しはじめてしまいましたが、ようするにこの夏祭りという行事もそれを主催する人々にとって重要な意味があるからそれを何年も、何十年も、いやもしかすると何百年も行ってきているのではないでしょうか?それが記念して行っているということです。私は以前説教でユダヤ教の行事である「過ぎ越し」の事を説明したと思います。主がイスラエルの民をなかなか出て行かせないエジプトに罰を与え、エジプトの長子、家畜も含めて皆打ってしまったが、イスラエルの民の長子は打たなかった、つまり過ぎ越したわけです。それを記念してこの過ぎ越しの行事をイスラエルの民はするわけです。記念には意味があるということです。そして記念の行事を忘れるということは大変な事です。

 この過ぎ越しの祭りと同じように主の最後の晩餐とそれに由来する聖餐式には意味があり、これを記念して行っているということです。

 さらに主イエスはこれは契約であると言っています。どういうことでしょうか?主は人々と契約を結んできました。古くはノアと、次にイスラエルの民であるアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセ、ダビデなどですね。神との契約というのはとても大切です。神はモーセと契約を結びました。それは十戒をもとにする細かな規定のある律法でした。しかし、一番大切なことはあなたは主を全身全霊で愛しなさい。そして二番目に大切なことは自分を愛するように隣人を愛しなさいというものでした。しかし、イスラエルの民は主を何度も忘れ、他の神々を礼拝しました。また国では弱者が踏みにじられていました。つまり契約が破られたのです。ですが主イエスは新たな契約を与えると言われたのです。それが主イエスを受け入れることによって私達の罪が許され、永遠の命を与えるということです。洗礼を受け、聖餐に預かるということはその象徴なのです。

 私達は聖餐式に預かるごとに主の死を告げ知らせるのだとパウロは言っています。主の死とはどういうことでしょうか?それは主が私達の罪の贖いのために死なれたことです。ですがさらに言うならば、死なれただけでなく、主はご復活され、死に打ち勝ったのです。そして弟子たちの前に現れ、天に戻られ栄光の座におつきになられました。さらに言うならば、パウロは「主が来られるときまで」と26節で言っています。これはキリストが再び来られることを意味します。主の死だけでなくこれらを含めて私達は告げ知らせなくてはいけません。


 本日の聖書箇所の後半部分、つまり27節から29節は私達がどういう態度でこの聖餐式にのぞむべきかということが書かれています。ずいぶん厳しいことが書かれていますね。「ふさわしくないままで」、「主の体と血に対して罪を犯すことになります。」、「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」などです。これだけを見てみますと、私は聖餐に預かることなんて出来ないんじゃないかと思われるかもしれません。ですが、大切なことは私達自身が神に対して、そして隣人に対してどういう心の態度であるかということです。もし自分が問題を抱えているのであるのなら主の前に行って赦していただきましょう。そうした上で聖餐に預かるのです。それがパウロの言う「自分をよく確かめたうえで」ということなのです。だから「わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。」(31節)ということなのです。

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